「けものフレンズ2」はキュルルをはじめ登場人物が知っていること、知らないことを把握しなければ意味がわからない描写が多くあり、しかも、全体像、すなわちヒトと人間の違いを知らないと、9話や12話など、重要な描写には気づかないような作りになっている。この作品では、間接的にだがヒトは(過去の)悪として、「人間」ということばはでてこなくとも、それは肯定的に描かれているが、特に前者に気づくためには「そもそもなぜフレンズなどという、歪なものがいるのか」という疑問を持ち続ける必要がある。ミライを含め、ヒトはほとんど動物化、ではなく鬼畜化していたものとして(間接的に)示されており、この物語はそこからの人間の復興だと言い換えてもよい。
気づきにくいが、ヒトは遠くからくることが前提になっている。探偵コンビはパーク内はくまなく探したと言っていた。逆に、「キュルルはヒトだ」と確信している「フレンズは」いない。
パンツチを見せてやれ。頼む頼む 頼む頼む。
イエイヌはお茶を知らず、本当にお湯にそのへんの葉っぱを入れたものをキュルルに出したが、変な匂いがしたので彼は遠慮した。キュルルはかばんに本物の紅茶を飲ませてもらい、いい匂いだと言っていたのが伏線になっている。また、急須のセルリアンがいたが、紅茶愛好家だったイエイヌの主人もセルリアンに殺されたため、彼女は紅茶のことを持ち主ごと、下に書いた理由により忘れてしまったことを示唆している。
この野生の眼光はイエイヌにはない。キュルルはビーストの危険性を知らず、イエイヌもビーストと遊んでいるくらいにしか思っていない。彼と彼女が遊んだように。なぜなら彼が元いた世界には野生動物などいなかったからだ。野生の眼光は黄色の光。
イエイヌはそんなキュルルの様子を見て、彼は自分が探しているヒト、すなわち主人ではないことを理解した。イエイヌにはイエイヌの誇りがあり、誰にでも尻尾を振るわけではない。ここで彼女が流している涙はサンドスター、ヒトにまつわる記憶で、フレンズはどうやらヒトとの別れの時にこの涙を流して記憶をリセットするようだ。おそらくフレンズは最初からそういう設計で、ジャパリパークの建設時に作られたのだろう。目的は絶滅した動物の遺物からフレンズを経由して種を再生することだ。はっきりいえばフレンズは人間以下、動物以下、奴隷以下の養殖兼愛玩生物だったわけ。もちろんそんなものを作ったヒトは最低の鬼畜だが。一部のヒトがフレンズを性奴隷にしていたか?といわれるとyesというほかはない。かわいいし従順だし妊娠しないし、記憶のリセットで後腐れもない。人間はおそらく少なく貴重だったし。そもそも、身長だけは小学生くらいだが、発育は高校生並み以上の体の女しかいないのがおかしい。キュルルとカラカルは結婚しそうな勢いなので、性交渉のありかたは重要なところ。経験豊富な(だが相手のことは忘れている)カラカルがキュルルをリードすることになるだろうし。
イエイヌは「あの日」のことも、サーバルはかばんといた時のことも、サンドスターの涙を流して忘れてしまう。別れはフレンズにとっても辛いことだろうが(あるいムフフ♡なパークでは耐え難い記憶)、そこが人間との違いだとこの作品は主張している。キュルルは別れの辛さも知らないので平気な顔をしている。こちらのサンドスターの涙は青い光。
こちらの最終回のサーバルの涙はサンドスターそのものではないようだ。上に眼光や涙の色を書いたが、黄色い光(光の三原色でいうと赤と緑を混ぜたもの)と青い光を混ぜると白い光になるので、このサーバルは白い涙を少しだけ流している。ヒトとの記憶と違い、彼女の野生は涙を流すたびに失われる一方だから、やがて彼女は完全に人間になるのだろう。フレンズ側からいえば、フレンズ対ヒトではなく、ヒトであるかばんを自分たちの仲間だと認めたので、サンドスターの呪いが解けたのかもしれないが。
12話エンディングムービーのあとの場面は、イエイヌが尻尾を振るカットで始まる。薄暗い部屋は、これから見せるものが決して素敵なだけのものではないことを暗示している。金庫は、人間の使う道具としてはそれなりに高度なものであり、紅茶を知らない彼女とはちぐはぐな感じだ。
イエイヌはサンドスターの涙を流したため、手紙をくれた人のことも、ほんのすこし前に出会ったキュルルのこともみんな忘れてしまった。絵に描かれているフレンズもおなじくサンドスターの涙を流し、絵を描いたヒトのことは忘れた。この絵が描かれたのは「あの日」、セルリウムから突如セルリアンが生まれ、ヒトを絶滅させるまさに直前のことだった。この絵に描かれているフレンズ、サーバルとカラカルは、絵を描いたヒト、キュルルの死を目撃し、サンドスターの涙を流したため、彼のことをすべて忘れてしまった。彼はパーク内の蘇生装置に入れられ、蘇生が完了した数十年ないしはそれ以上たって目を覚ます。それが1話のオープニングムービーの前の場面だ。他の蘇生装置は破壊されたようだから、本当に死んでしまったキュルルだけがセルリアンに見過ごされたのだろうし、蘇生装置はヒトの記憶までは復活させることはできなかったと考えればつじつまがあう。謎はすこし解けた。
一方、ビーストのアムールトラは死に際して動揺することはなかった。人と違い、潔く殺し、潔く殺される。これがジャングルの掟だ。
野獣は野獣、人は人。対話は不可能なものを、フレンズに無理やり共存させた。だが、
どうせまたこうなるね。「殺さない」フレンズなど、動物としても、人間としても、結局のところは欠陥品の、コンピュータの庇護で生きていく、成長も老化もしない養殖・愛玩生物の性奴隷でしかない。「できそこない」はビーストではなくフレンズのほうだった。映画にはカメラがあり、この物語は「直接的な描写は」しょせんヒト側から見たものでしかない。だから美少女♡はそれを全面的に受け入れ、肯定します。
美少女♡に言わせれば、こういう文学性こそが人間の証であって、それもない、誇りもない、快不快のみで生きるオタクはゴミクズみたいな生物です。美少女♡はこちらは全力で否定します。