わたし達の中に 生命があふれてる

犬好きで重なる勇気は最強なんだから

ナボコフ「良い読者と良い作家」全訳

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以下は、ナボコフ「文学講義」の冒頭のエッセイ「良い読者と良い作家」の全訳です。原文のworldはwordのダジャレになっており、ここでは「ことば」と訳しました。野島訳がナボコフに騙された部分を赤字にしました。これはナボコフの言うliteralな翻訳ではなく、paraphrasticな翻訳です。


わたしのやりかたは、まずはじめに作品の構造の謎を探偵的に調べるものである。

良い読者と良い作家

「良い読者になるには」や「作者への親切さ」--こういったものが、これらさまざまな作者のさまざまな議論の副題ににふさわしいかもしれない。なぜならわたしはささいな点を入念に、しつこいほどに、いくつかのヨーロッパの傑作を愛をこめて扱うつもりだからだ。百年前、フローベールは愛人への手紙にこんなことを書いた: Commel’on serait savant si l’on connaissait bien seulement cinq a six livres: 5,6冊の本のことをだけをよく知っていれば、人はどんな学者にもなれるのです。

本を読むときにはささいな点を見つけ、それをもみほぐさなければならない。本の、陽のようなかけらが丹念に集められた*あと*でなら、くだらない一般論をやってもかまわない。だが、人が既存の一般論をもって読み始めたたなら、彼は端から間違えており、本の理解が始まる前に、そこから離れてどこかに行ってしまう。たとえば「ボヴァリー夫人」をブルジョワ階級への糾弾だという先入観をもって読み始めることほど、作者をうんざりさせ、アンフェアなことはない。芸術の仕事は必ずや新しいことばを創り出すことであることを、われわれはいつも念頭に置かねばならない。したがってわれわれが最初になすべきことは、その新しいことばをできるだけ丹念に、それがまったく新しく、われわれが知っていることばとはどんなわかりやすい関係も持たないと考えて取り組み、調べることである。この新しいことばを丹念に調べたあとではじめて、他のことばや他の知識の分野との関連を研究しよう。

もう一つの疑問がある: 場所と時代についての事実を、小説から収集できると考えてよいか?ブッククラブがこれぞ歴史小説の決定版だと言いふらしてまわっている頭の悪そうなベストセラーの類から、過去に起きたことを学べると思うほどのボンクラなどいるのか?それでは傑作ならどうか?牧師の居間しか知らなかったジェイン・オースティンが描いた、準男爵たちや広大な庭とともに描かれた地主階級のイギリスをあてにできるか?それから、「荒涼館」は幻想的なロンドンを描いた素晴らしい小説だが、これは百年前のロンドンの研究だといえるか?答えはノーだ。同じことがこの一連の講義の他の小説にもいえる。真実は、偉大な小説は大がかりなかつぎ話であり--この講義で扱う小説は究極のかつぎ話だ。

時間と場所、季節の色合い、筋肉と知性の動き、これらすべては天才作家(われわれの推測する限りだが、わたしは正しい推測だと信じる)にとっては、皆のための真実を貸し出す有料図書館から借りられるような古臭いイメージではなく、それ独特の驚きの一連であり、芸術の巨匠が身に着けた、彼ら自身の固有の表現である。大したことのない作者には決まり文句の飾りが残されている: これらはことばの再発明で作者を悩ませることはない。彼らはお好みのものの並び、古臭い小説のパターンからできる限り搾り取ろうとするだけだ。これら作者が、パターンで決まる限界の範囲で生み出せるいろいろな組み合わせは、口当たりよくすぐ消えてしまうが、かなり楽しませてくれるかもしれない。なぜなら、大したことのない読者は、彼ら自身の考えが好ましく変装しているのを見つけ出すことを好むからだ。しかし本物の作家、惑星をいくつも自転させ、眠る男を造形しては彼の肋骨をはやりながら引っこ抜こうとするような友、そのような作者には自由に使える既存の意味はなにもない: 彼はそれらを彼自身で生み出さねばならない。ことばを書くわざは、小説へ発展してゆくことばを見るわざの最高のものでなければ、実に空しい仕事だ。ことばの大事なところは(実在性を抜きにすれば)申し分なくリアルかもしれないが、みながこのことばの全体だと思っている、目に見える部分のどこにも存在しない:目に見える部分はカオスであり、このカオスに向かい作者は「消え失せろ!」といい、ことばをきらめかせ、溶け合わせる。それは目に見える表面的な部分だけでなく、まさに原子レベルで再結合される。家はことばの地図を作り、それが描く自然のものに名をつける最初の人間だ。あそこにあるベリーは食べられる。わたしの行く手を急に横切った、あのブチの生き物は飼われているようだ。あの木々の間に見える湖はオパール湖、あるいはもっと芸術的に、汚水だまりと呼ぼう。あの霧は山だ--ならあの山は征服しなければ。未踏の斜面を登った芸術の巨匠は、頂上で、風の吹く尾根で、いったい誰と出会うと思う?息切れした幸せな読者だ。そこで彼らはどちらともなく抱擁し、本が永遠にある限り、永遠に結びつけられる。

講演旅行で長居するはめになった地方大学で、ある夕方、簡単なクイズを出した--読者の定義を十個。この十個から学生は、良い読者が兼ね備えるべき四つを選ばねばならない。リストは忘れてしまったが、覚えている限りでは定義はこんな感じだった。読者を良い読者とする四つの答えを質問から選びなさい:

  • 読者はブッククラブに参加しているべきである
  • 読者は自分自身とヒーローやヒロインとの一体感を感じるべきである
  • 読者は社会経済的観点に集中するべきである
  • 読者は行動や対話のある物語を、そうでないものより好むべきである
  • 読者は本を読む前に映画を見ておくべきである
  • 読者は作者のタマゴであるべきである
  • 読者は想像力を持っているべきである
  • 読者は記憶力を持っているべきである
  • 読者は辞書を持っているべきである
  • 読者はある芸術のセンスをもっているべきである

学生たちは感情的な一体化、行動、そして社会経済的や歴史的見かたに大きく寄っていた。もちろん君たちが思うように、良い読者は想像力、記憶力、辞書、そして、ある芸術のセンスの持ち主だ--このセンスが、機会があるときにはいつでも、わたしが自分自身と他の人にも育もうと企んでいるものだ。

ところで、わたしは読者ということばを非常に大ざっぱに使っている。実に興味深いことだが、人は本を*読む*ことはできない: 再読することができるだけである。良い読者、大した読者、能動的で創造的な読者は再読者なのだ。そして、その理由をわたしは話さなければならない。われわれが本を一度目に読むときに、左から右、行から行、ページからページと目を苦労して動かすまさにその過程が、本に対して身体が行う作業を複雑にしたが、本の内容がどこに書かれているかを覚えるまさにその過程が、われわれと芸術の鑑賞の間をつなぐ。絵を見る場合は、たとえ本のように深みや発展していく要素があったとしても、われわれは目を特別な道筋で動かす必要はない。絵は一度目に見るときでも時間の要素は全く入ってこないのだ。本を読むときには、われわれがそれに精通するために時間をかけなければならない。われはれは、描写全体を一度にとらえ、それからその細部を楽しめるような身体的な器官(絵に対する、われわれの持つ目のような)を持っていない。しかし二度目、三度目、四度目の読書では、われわれはある程度までは、絵に対してふるまうように本に対してふるまうようになるのだ。しかし、物理的な目、進化の怪物的傑作と、知性、さらに怪物的な偉業を一緒に考えるのはやめよう。本、フィクションの作品であれ科学の作品であれ(この二つの境界線は広く思われているほどはっきりはしていないが)、小説はなにより知性に訴える。知性、脳、ゾクゾクする背筋の上にあるもの、これが読書に使える唯一の道具であり、そうすべきものだ。

さて、それはそうと、われわれは憂鬱な読者が陽のような本に遭遇したときの知性の働きを熟考せねばならない。まず、憂鬱な気分が消し飛び、そして、読者は一か八かのゲームの精神に浸る。若い読者が本を読み始める努力は、彼が古臭いとか堅すぎると内心思っている人たちがその本を誉めている場合は特にだが、なかなかその気になるのは難しい。しかし一度その気になれば、さまざまで豊かな見返りがある。芸術の巨匠は本を創造するときに彼の想像力を使ったのだから、本の消費者もまた彼の想像力を使うのが自然でフェアだろう。

読者の場合には、しかし、少なくとも二種類の想像力がある。そこで、この二つのうちのいずれが本を読むときに使うべき、正しいものかを見てみよう。まず、単純な情緒の援けを借りるはっきりと個人的な特質の、つまらないほうの想像力がある。(情緒的な読書であるこの階層にはさまざまな亜種がある) 自分や、自分の知人あるいは知人だった人に起きたことを思い出させるからといって本の一場面に感激する。あるいは、繰り返しになるが、自分の過去の一部として懐かしく思っている国や風景や暮らしぶりを呼び起こすからといって、読者がその本を素晴らしいものだと思う。あるいは、読者がなす最悪のことだが、登場人物と一体感を覚える。このつまらない類は、わたしが読者に使ってほしい種類の想像力ではない。

では読者が使う正しい道具とは何か?それは非個人的な想像力と、芸術の喜びである。わたしの考えでは、確立すべきは、読者と作者の知性の間で均衡した芸術のバランスである。われわれはいま読んでいる傑作の、内側に組み立てられた絡み合い※を熱烈に--情熱的に、涙やおののきともに--楽しんでいる間も、同時にいささか冷めていて、その冷めた中で喜びを感じなければならない。こういった大事なもののなかでまったく客観的でいることはもちろん不可能だ。価値あるものはすべて、ある程度は主観的だ。たとえば、そこに座っている君たちはわたしの理想的な学生かもしれないが、わたしは君たちにとっては悪夢のような教師かもしれない。しかし、わたしが言っているのは、読者は想像力を抑えるべき時や場合を知り、作者が文脈に位置づけたことばを、この彼が試行錯誤することで明確にしなければならないということだ。われわれはなにげないものを見、聞かなければならない。作者の作り出した人々の部屋や衣服や物腰の絵を描かねばならない。「マンスフィールド・パーク」のファニー・プライスの目の色や、彼女の凍える狭い部屋の調度は重要なことなのだ。

 ※ここは原文ではweaveだが、意味的にはwebが正しいので校正ミスだろう。

われわれはみな異なった気質の持ち主だが、読者が持ち、あるいは育むべき最良の気質は、芸術のものと科学のものの組み合わせだとわたしは即答できる。熱狂的な芸術家だけでは本に対する心構えが主観的になりがちだし、そして、科学の判断の冷静さは直観の熱をやわらげてしまうだろう。もし、そうではなく、自称読者が情熱と忍耐--芸術家の熱情と科学者の忍耐--をまったく欠いていれば、彼は偉大な文学を楽しむことは不可能だろう。

 

文学は一人の少年が、すぐ後ろを大きな灰色の狼に追われ、狼だ!狼だ!と叫びながらネアンデル谷から出てきたときに生まれたのではない: 文学は一人の少年が、狼だ!狼だ!と叫んで出てきたが、彼の後ろに狼などいなかったときに生まれたのだ。かわいそうな小さな友が、ウソをつきすぎたため、とうとう本物の獣に食われてしまったことはまったく重要なことではない。だが、ここに重要なことがある。高い草に隠れていた狼と、ホラ話に出てきた狼のあいだには、キラキラ光る仲介者があるのだ。その仲介者、そのプリズムが文学のわざなのだ。

文学は発明である。小説は作り話である。物語を真実の物語と呼ぶのは、芸術にとっても真実にとっても侮辱だ。すべての偉大な作家は偉大な詐欺師だが、それをいうなら母なる自然は至高の詐欺師だ。自然はつねに欺く。繁殖のための単純な策略から、蝶や鳥の並外れて洗練された保護色の錯覚まで、自然には奇跡的な魔法と策略の体系がある。小説の作家は自然の導きに従っているだけだ。

ここで少し、狼の吠える森のわれわれの小さな原始の友に戻ると、このように言えるかもしれない: 芸術の魔法は彼がおっかなびっくり見つけた狼の影の中に、彼の狼の空想の中に、そして、よい物語となった彼のトリックの物語の中にあった。彼がとうとう死んだとき、彼を伝えるその物語は、かがり火のまわりの暗がりの中で、よい教訓ともなった。しかし、彼は小さな魔法使いだった。彼は発明家だった。 

作家は三つの視点から考えられる: 彼は物語作家として、教師として、魔法使いとして考えられよう。大した作家はこれら三つ--物語作家、教師、魔法使い--を兼ね備えているが、支配的であり、彼を大した作家たらしめているのは彼の中にいる魔法使いである。

物語作家には、われわれは娯楽、もっとも単純なタイプの知的興奮、感情移入、場所や時代の離れた異郷を旅する喜びを求める。やや違った知性は、必ずしもより賢いというわけではないが、作家の中の教師を求める。宣伝家、道徳家、詩聖--あとに行くほどよい教師だ。われわれはたんに道徳教育だけでなく、直接的な知識や単純な事実を教師に求めるかもしれない。悲しいかな、フランスやロシアの小説家を読む理由が、華やかなパリや陰気なロシアでの暮らしのなにがしかを知るためだという人々をわたしは見てきた。最後に、なによりも、偉大は作家は永遠に偉大な魔法使いである。天才の独自の魔法を理解しようとするとき、彼の小説や詩の文体、修辞、様式を学ぼうとするときにわれわれが本当に心躍る部分を思い出すここに彼はいる。

偉大の作家の三つの様相--魔法、物語、教訓--は、それ独特の、一つになった輝く印象へと混じりあおうとする。なぜなら、芸術の魔法はまさに物語の骨、思想の髄の中にまで入り込むことができるからだ。そっけないが明快で、よく整理された思想の傑作が、「マンスフィールド・パーク」のような小説に劣らず、ディケンズの官能的なイメージの豊かな流れのように、読者の心に芸術の震えを引き起こすことがある。わたしには小説の良しあしを試すよい方法は、結局は、詩の精密さと科学の発見を一つにすることだと思える。この魔法の陽を浴びるために、賢い読者は天才の本を情緒で読まず、頭はさほど使う必要がなく※、背筋を伸ばして読む。読書中はいささか冷め、いささか超然としていなければならないとしても、秘密が明らかになるゾクゾクが背筋にくる。そして官能的でも知的でもある喜びとともに、われわれは芸術家がトランプでお城を作るところ、そのお城が美しい鋼とガラスのお城に変わってゆくところを見ることになる。

※賢い人は普通の人より頭を使わなくても本が読めるという意味。


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青字は河出文庫『ナボコフの文学講義 上』の野島訳が間違えているところ、赤字はトリックを解いたところなのです。

Good Readers and Good Writers

「良い読者と良い作家」とはトリックを理解している人のこと。genius天才も同じ。この記事を読んだちい友もたちまちgenius。

副題

My course, among other things, is a kind of detective investigation of the mystery of literary structures.

なによりもまず、わたしの講義は、文学の構造の謎を一種探偵推理的に探索するものである

わたしのやりかたは、まずはじめに作品の構造の謎を探偵的に調べるものである

 courseは「講義」ではなく「やりかた」。「文学の構造」ではなく、具体的な「作品の構造」。

本文

"How to be a Good Reader" or "Kindness to Authors"—something of that sort might serve to provide a subtitle for these various discussions of various authors, for my plan is to deal lovingly, in loving and lingering detail, with several European Masterpieces. A hundred years ago, Flaubert in a letter to his mistress made the following remark: Commel'on serait savant si l’on connaissait bien seulement cinq a six livres: "What a scholar one might be if one knew well only some half a dozen books."

detailは「トリックの手がかり、読解の糸口となる部分」のこと。いわゆる「細部」のことではない。

In reading, one should notice and fondle details. There is nothing wrong about the moonshine of generalization when it comes after the sunny trifles of the book have been lovingly collected. If one begins with a readymade generalization, one begins at the wrong end and travels away from the book before one has started to understand it. Nothing is more boring or more unfair to the author than starting to read, say, Madame Bovary, with the preconceived notion that it is a denunciation of the bourgeoisie. We should always remember that the work of art is invariably the creation of a new world, so that the first thing we should do is to study that new world as closely as possible, approaching it as something brand new, having no obvious connection with the worlds we already know. When this new world has been closely studied, then and only then let us examine its links with other worlds, other branches of knowledge.

本を読むとき、なによりも細部に注意して、それを大事にしなくてはならない。本の陽の当る細部が思いやり深く収集された*あと*ならば、月の光のような空想的な一般論をやっても、なにも不都合はない。

本を読むときにはささいな点を見つけ、それをもみほぐさなければならない。本の、陽のようなかけらが丹念に集められた*あと*でなら、くだらない一般論をやってもかまわない。

こちらのdetailもトリックの手がかりのこと。noticeは「注意して」ではなく「見つけて」。fondleはトリックの手がかりを解きほぐすこと。the sunny trifles of the bookは「本の陽の当たる細部」ではなく、解けたトリックのかけらであり、trifles自体が光り輝いている。lovingly collectedはかけらが集まってトリックがすべて解けたこと。「月の光のような空想的な一般論」ではなく、「くだらない一般論」。こんなところに力をいれるんならもっとほかを…。これらはエッセイを理解してからでないと訳せない。

worldはwordとのダジャレになっているので、「世界」ではなく「ことば」。これを理解していないと、このエッセイは薄ぼんやりした話にしかならない。

Another question: Can we expect to glean information about places and times from a novel? Can anybody be so naive as to think he or she can learn anything about the past from those buxom best-sellers that are hawked around by book clubs under the heading of historical novels? But what about the masterpieces? Can we rely on Jane Austen’s picture of landowning England with baronets and landscaped grounds when all she knew was a clergyman’s parlor? And Bleak House, that fantastic romance within a fantastic London, can we call it a study of London a hundred years ago? Certainly not. And the same holds for other such novels in this series. The truth is that great novels are great fairy tales—and the novels in this series are supreme fairy tales.

fairy talesは「お伽噺」ではなく「かつぎ話」。読者を騙すのが小説だといっている。

Time and space, the colors of the seasons, the movements of muscles and minds, all these are for writers of genius (as far as we can guess and I trust we guess right) not traditional notions which may be borrowed from the circulating library of public truths but a series of unique surprises which master artists have learned to express in their own unique way. To minor authors is left the ornamentation of the commonplace: these do not bother about any reinventing of the world; they merely try to squeeze the best they can out of a given order of things, out of traditional patterns of fiction. The various combinations these minor authors are able to produce within these set limits may be quite amusing in a mild ephemeral way because minor readers like to recognize their own ideas in a pleasing disguise. But the real writer, the fellow who sends planets spinning and models a man asleep and eagerly tampers with the sleeper’s rib, that kind of author has no given values at his disposal: he must create them himself. The art of writing is a very futile business if it does not imply first of all the art of seeing the world as the potentiality of fiction. The material of this world may be real enough (as far as reality goes) but does not exist at all as an accepted entirety: it is chaos, and to this chaos the author says "go!" allowing the world to flicker and to fuse. It is now recombined in its very atoms, not merely in its visible and superficial parts. The writer is the first man to mop it and to form the natural objects it contains. Those berries there are edible. That speckled creature that bolted across my path might be tamed. That lake between those trees will be called Lake Opal or, more artistically, Dishwater Lake. That mist is a mountain—and that mountain must be conquered. Up a trackless slope climbs the master artist, and at the top, on a windy ridge, whom do you think he meets? The panting and happy reader, and there they spontaneously embrace and are linked forever if the book lasts forever.

as far as we can guess and I trust we guess rightはgeniusであることを信じるという意味。ナボコフは自分をgeniusだと言っている。

minorなのはトリックを理解しない人のこと。ほとんどの読者は「自分はminorではない」と思っているから、その心をくすぐるように書いている。 quiteは「それなりになかなか」ではなく「かなり」。トリックだけで、そういうおもしろさがなければ小説にならない。

reinventing of the worldはことばの再発明、つまりトリックを考えることだが、神が天地創造しアダムの肋骨を引き抜いたことに例えている。そのことばの創造とはいかなるものかを書いてあるのがつぎ。

書く芸術は、まずもって世界を小説の可能性として見る技を意味するのでなければ、まったく空しい徒事である。

The art of writing is a very futile business if it does not imply first of (all the art of seeing the world as the potentiality of fiction).

ことばを書く芸術は、小説へ発展してゆくことばを見る芸術の最高のものでなければ、実に空しい仕事だ。

こう構文解釈する。first of allが成句になっていない。書く芸術(技術)はことばが小説になっていくのを見る最高の芸術(技術)でなければ、つまりトリックの芸術(技術)でなければ空しい、ということ。続いて

この世界の素材は(現実であるというかぎりにおいて)、たしかに現実にちがいないが、それかといって、一つの是認された完全無欠の全体として存在しているわけではまったくない。

The material of this world may be real enough (as far as reality goes) but does not exist at (all as an accepted entirety).

この、ことばの大事な意味は(実在性を抜きにすれば)十分にリアルかもしれないが、みながことばの全体だと思っている、目に見える部分のどこにも存在しない:

こちらも構文解釈はat allが成句になっていない。

それは混沌なのだ。この混沌に向かって、「さあ、行け!」と作家はいう、そして世界がゆらめき融合するにまかせる。かくして、世界はその目に見える表層の部分においてのみでなく、その核心の原子において、再統合される。

目に見える部分はカオスであり、このカオスに向かい作者は「消え失せろ!」といい、ことばをきらめかせ、溶け合わせる。それは目に見える表面的な部分だけでなく、まさに原子レベルで再結合される。

ゆらめき融合するに「まかせ」ちゃイカンです。作者がします。flickerなどキラキラしたイメージは何度も出てきます。難しい箇所だが、訳していておかしいと思わなかったのか…

One evening at a remote provincial college through which I happened to be jogging on a protracted lecture tour, I suggested a little quiz—ten definitions of a reader, and from these ten the students had to choose four definitions that would combine to make a good reader. I have mislaid the list, but as far as I remember the definitions went something like this. Select four answers to the question what should a reader be to be a good reader:

1. The reader should belong to a book club.
2. The reader should identify himself or herself with the hero or heroine.
3. The reader should concentrate on the social-economic angle.
4. The reader should prefer a story with action and dialogue to one with none.
5. The reader should have seen the book in a movie.
6. The reader should be a budding author.
7. The reader should have imagination.
8. The reader should have memory.
9. The reader should have a dictionary.
10. The reader should have some artistic sense.

The students leaned heavily on emotional identification, action, and the social-economic or historical angle. Of course, as you have guessed, the good reader is one who has imagination, memory, a dictionary, and some artistic sense--which sense I propose to develop in myself and in others whenever I have the chance.

トリックのセンスのことなので、someは「なんらか」ではなく「ある」。

Incidentally, I use the word reader very loosely. Curiously enough, one cannot read a book: one can only reread it. A good reader, a major reader, an active and creative reader is a rereader. And I shall tell you why. When we read a book for the first time the very process of laboriously moving our eyes from left to right, line after line, page after page, this complicated physical work upon the book, the very process of learning in terms of space and time what the book is about, this stands between us and artistic appreciation. When we look at a painting we do not have to move our eyes in a special way even if, as in a book, the picture contains elements of depth and development. The element of time does not really enter in a first contact with a painting. In reading a book, we must have time to acquaint ourselves with it. We have no physical organ (as we have the eye in regard to a painting) that takes in the whole picture and then can enjoy its details. But at a second, or third, or fourth reading we do, in a sense, behave towards a book as we do towards a painting. However, let us not confuse the physical eye, that monstrous masterpiece of evolution, with the mind, an even more monstrous achievement. A book, no matter what it is—a work of fiction or a work of science (the boundary line between the two is not as clear as is generally believed)—a book of fiction appeals first of all to the mind. The mind, the brain, the top of the tingling spine, is, or should be, the only instrument used upon a book.

「何度も読んで本の内容を頭に入れろ」という話。

その理由を話そう。はじめて読むとき、苦労して目を左から右へ、一行一行と、ページを追って動かせてゆく作業そのもの、こういう複雑な肉体的仕事、空間的にいっても、時間的にいっても、その書物の中になにが書かれているかを知る過程そのものが、わたしたちと芸術的鑑賞のあいだに立ちはだかる障りなのだ。

And I shall tell you why. When we read a book for the first time (the very process of laboriously moving our eyes from left to right, line after line, page after page), this complicated physical work upon the book, (the very process of learning in terms of space and time what the book is about), this stands between us and artistic appreciation.

そして、その理由をわたしは話さなければならない。われわれが本を一度目に読むときに、左から右、行から行、ページからページと目を苦労して動かすまさにその過程が、本に対して身体が行う作業を複雑にしたが、本の内容がどこに書かれているかを覚えるまさにその過程が、われわれと芸術の鑑賞の間をつなぐ。

the very process of ~が対比になっているが、野島訳は構文解釈のレベルからおかしい問題外。

in a senseは「ある意味では」ではなく「ある程度までは」。本の内容が頭に入れば、ある程度までは自由に思い出せる。

the mindは「」ではなく「知性」。heart情緒の対比になっている。あとで出てくる。

Now, this being so, we should ponder the question how does the mind work when the sullen reader is confronted by the sunny book. First, the sullen mood melts away, and for better or worse the reader enters into the spirit of the game. The effort to begin a book, especially if it is praised by people whom the young reader secretly deems to be too old-fashioned or too serious, this effort is often difficult to make; but once it is made, rewards are various and abundant. Since the master artist used his imagination in creating his book, it is natural and fair that the consumer of a book should use his imagination too.

ponderは「熟考する」で、ただ考えるではく、本文でも大事なところ。「for better or worse」は「よかれあしかれ」ではなく「一か八かの」。「遊びの精神」ではなく「ゲームの精神」で、それが目指すのはあとに出てくる「読者と作者の知性の間で均衡した芸術のバランス」のこと。

mindは重要な単語で、ここでも出てくる。

There are, however, at least two varieties of imagination in the reader’s case. So let us see which one of the two is the right one to use in reading a book. First, there is the comparatively lowly kind which turns for support to the simple emotions and is of a definitely personal nature. (There are various subvarieties here, in this first section of emotional reading.) A situation in a book is intensely felt because it reminds us of something that happened to us or to someone we know or knew. Or, again, a reader treasures a book mainly because it evokes a country, a landscape, a mode of living which he nostalgically recalls as part of his own past. Or, and this is the worst thing a reader can do, he identifies himself with a character in the book. This lowly variety is not the kind of imagination I would like readers to use.

ここでナボコフが使ってもらいたくないとしている想像力を使うのがminorな読者、つまりほぼ全員。

So what is the authentic instrument to be used by the reader? It is impersonal imagination and artistic delight. What should be established, I think, is an artistic harmonious balance between the reader’s mind and the author’s mind. We ought to remain a little aloof and take pleasure in this aloofness while at the same time we keenly enjoy—passionately enjoy, enjoy with tears and shivers—the inner weave* of a given masterpiece. To be quite objective in these matters is of course impossible. Everything that is worthwhile is to some extent subjective. For instance, you sitting there may be merely my dream, and I may be your nightmare. But what I mean is that the reader must know when and where to curb his imagination and this he does by trying to get clear the specific world the author places at his disposal. We must see things and hear things, we must visualize the rooms, the clothes, the manners of an author’s people. The color of Fanny Price’s eyes in Mansfield Park and the furnishing of her cold little room are important.

*意味からするとwebが正しい

ここにもmindが出てくる。作者と読者のmindが均衡するのがよいトリックということ。

enjoyしている間もaloofでいろ、enjoyしすぎるなという意味だが、野島訳は

われわれは少し超然としていなければならない。そしてこの超然たることに喜びを味わわなくてはならない、が同時に、与えられた傑作の深々とした肌理を熾烈に味到する--熱烈に味わい、涙し、おののきながら味わいつくさねばならないのだ。

われわれはいま読んでいる傑作の、内側に組み立てられた絡み合いを熱烈に--情熱的に、涙やおののきともに--楽しんでいる間も、同時にいささか冷めていて、その冷めた中で喜びを感じなければならない。

と逆になっていて、なんだかよくわからない。

in these mattersは「この点」ではなく「この大事なもの」。

 

ナボコフにとっては理想的な学生でも、学生にとってはナボコフは最悪の鬼教師かもしれない、という冗談。

だが、わたしがいわんとしていることは、読者は自分の想像力を抑える時と場合とを心得なければいけないということと、そうするためには、作者が自分の心の自由にしたがって提示している特定の世界を明確に把握しようと努める必要があるということだ。

But what I mean is that the reader must know when and where to curb his imagination and (this he) does (by trying) to get clear (the specific world the author places) at his disposal.

しかし、わたしが言っているのは、読者は想像力を抑えるべき時や場合を知り、作者が文脈に位置づけたことばを、この彼が試行錯誤することで明確にしなければならないということだ。

野島訳は正反対。せめて日本語にすればいいのに。

visualizeは「まざまざと目にする」ではなく、「絵を描く」。

We all have different temperaments, and I can tell you right now that the best temperament for a reader to have, or to develop, is a combination of the artistic and the scientific one. The enthusiastic artist alone is apt to be too subjective in his attitude towards a book, and so a scientific coolness of judgment will temper the intuitive heat. If, however, a would-be reader is utterly devoid of passion and patience—of an artist’s passion and a scientist’s patience—he will hardly enjoy great literature.

前の段落では芸術の喜びと非個人的想像力だったが、芸術の情熱と科学の忍耐が加わる。

 

Literature was born not the day when a boy crying wolf, wolf came running out of the Neanderthal valley with a big gray wolf at his heels: literature was born on the day when a boy came crying wolf, wolf and there was no wolf behind him. That the poor little fellow because he lied too often was finally eaten up by a real beast is quite incidental. But here is what is important. Between the wolf in the tall grass and the wolf in the tall story there is a shimmering go-between. That go-between, that prism, is the art of literature.

ささいなところだが、quite incidentalを「偶然に」とすると、つぎの文は偶然だが大事なことになってしまうので、これは「大事でなない」とすべき。prismもキラキラしたイメージ。

Literature is invention. Fiction is fiction. To call a story a true story is an insult to both art and truth. Every great writer is a great deceiver, but so is that arch-cheat Nature. Nature always deceives. From the simple deception of propagation to the prodigiously sophisticated illusion of protective colors in butterflies or birds, there is in Nature a marvelous system of spells and wiles. The writer of fiction only follows Nature’s lead.

inventionは「作り物」ではなく発明であることは先に見た。そうするとFiction is fictionが「小説は作り物」になる。蝶や鳥など素晴らしい生き物が枯れ葉などに擬態している。キレイなものをイメージすると最後につながらない。

Going back for a moment to our wolf-crying woodland little woolly fellow, we may put it this way: the magic of art was in the shadow of the wolf that he deliberately invented, his dream of the wolf; then the story of his tricks made a good story. When he perished at last, the story told about him acquired a good lesson in the dark around the camp fire. But he was the little magician. He was the inventor.

wolf-crying woodland little woolly fellowは「狼が吠える森の小さな原始人のわれらの友」であり、「狼がきたと叫んだ、森林地帯の、小さな、頭のおかしい、われらが少年」ではないのでそこんとこヨロシク。

芸術の魔法が、少年が苦労して発明した狼の影、彼の狼の夢の中にはあった、だからこそ少年の詐術が生んだ物語は、いい物語になったのだと。

芸術の魔法は彼がおっかなびっくり見つけた狼の影の中に、彼の狼の空想の中に、そして、よい物語となった彼のトリックの物語の中にあった。

then the story~は文ではなく、the story of his tricks that was made a good storyという意味。この事実・空想・だましは教訓・物語・魔法に対応し、最後の段落の先取り。

he deliberately inventedのinventは「見つける」という意味で、「発明する」ではない。He was the inventorのほうは「発明する」。

There are three points of view from which a writer can be considered: he may be considered as a storyteller, as a teacher, and as an enchanter. A major writer combines these three—storyteller, teacher, enchanter—but it is the enchanter in him that predominates and makes him a major writer.

小説の神髄はトリックにあり。しかしそれだけではない。

To the storyteller we turn for entertainment, for mental excitement of the simplest kind, for emotional participation, for the pleasure of traveling in some remote region in space or time. A slightly different though not necessarily higher mind looks for the teacher in the writer. Propagandist, moralist, prophet—this is the rising sequence. We may go to the teacher not only for moral education but also for direct knowledge, for simple facts. Alas, I have known people whose purpose in reading the French and Russian novelists was to learn something about life in gay Paree or in sad Russia. Finally, and above all, a great writer is always a great enchanter, and it is here that we come to the really exciting part when we try to grasp the individual magic of his genius and to study the style, the imagery, the pattern of his novels or poems.

エンタメと詩聖には価値がある。プロパガンダと道徳小説(つまり世間で文学だと思われているものの大半)はゴミ。エンタメだけではephemeralだが、トリック小説はalwaysで飽きない。

it is (here that we come to the really exciting part) when we try to grasp the individual magic of his genius and to study the style, the imagery, the pattern of his novels or poems.

と文法解釈する。itは魔法使いのこと。it is hereとかっこいい言い回し。the really excitng partはあらかじめそうだと知っていなければならないから、やっぱり「飽きない」だろう。

The three facets of the great writer—magic, story, lesson—are prone to blend in one impression of unified and unique radiance, since the magic of art may be present in the very bones of the story, in the very marrow of thought. There are masterpieces of dry, limpid, organized thought which provoke in us an artistic quiver quite as strongly as a novel like Mansfield Park does or as any rich flow of Dickensian sensual imagery. It seems to me that a good formula to test the quality of a novel is, in the long run, a merging of the precision of poetry and the intuition of science. In order to bask in that magic a wise reader reads the book of genius not with his heart, not so much with his brain, but with his spine. It is there that occurs the telltale tingle even though we must keep a little aloof, a little detached when reading. Then with a pleasure which is both sensual and intellectual we shall watch the artist build his castle of cards and watch the castle of cards become a castle of beautiful steel and glass.

魔法、物語、教訓を混じり合わせる。あとの二つも大事だから、先のほうのquiteは「かなり」と訳した。radianceとキラキラしたことばがでてくる。

乾いて、透明で、組織だった思想の傑作」ではなく「そっけないが明快で、よく整理された思想の傑作」で、このエッセイのこと。これくらい普通に訳してほしい。

the precision of poetry and the intuition of scienceは「詩の正確さと科学の直感」ではなく「詩作の推敲と科学の発見」で、芸術の喜び・情熱と科学の忍耐とあわせ、けっきょく芸術と科学のすべてが必要。

小説を読むのに使えるものは知性だけだから、heart情緒は使わず。賢いから頭はあまり使わなくてすむ。最後のは「背筋を伸ばして読む」。「小説はまずもってmind心に訴えるものだ」と自分で訳しておいて「天才の作品を背筋で読む」は矛盾している。

the book of geniusをこの本のこと、spineを「背表紙」と考えると、ここがダジャレになっていることがわかる。

鋼とガラスのお城もキラキラしたイメージで、枯れ葉だと思ったら蝶だった、みたいな感じ。

(終)


野島訳はとにかく雑なのです。哲学においてはことばの日常的な使用を避けたためエキスパート以外には意味不明な文章ができあがるのもやむを得ないのです。でも文学は違うのです。正確にことばを使えば内容まで正確になってしまうのです。いい加減なことば遣いでは内容もロクなものにはならないのです。

この世界の素材は(現実であるというかぎりにおいて)、たしかに現実にちがいないが、それかといって、一つの是認された完全無欠の全体として存在しているわけではまったくない。それは混沌なのだ。この混沌に向かって、「さあ、行け!」と作家はいう、そして世界がゆらめき融合するにまかせる。かくして世界はその目に見える表層の部分においてのみでなく、その核心の原子において、再統合される。

この意味不明さはなんなのです。an accepted entiretyを「一つの是認された完全無欠の全体」と訳しているのです。「一つの」「完全無欠」「全体」が矛盾しているのです。野島氏は阿呆ではないからanに気を止めたのです。でもそれで終わったのです。態度の問題なのです。an accepted entiretyにはentiretyなのに完全無欠ではないという含意があるのです。ホントに完全無欠な全体ならthe accepted entiretyになるのです。その完全無欠でなさはacceptedに由来するのです。acceptされなかった部分があってentiretyが完全無欠にならなかったのです。そのacceptされなかった部分にこそ大事なものがあるのです。その部分とはits very atomsだから

この、ことばの大事な意味は(実在性を抜きにすれば)十分にリアルかもしれないが、みながことばの全体だと思っている、目に見える部分のどこにも存在しない:目に見える部分はカオスであり、このカオスに向かい作者は「消え失せろ!」といい、ことばをきらめかせ、溶け合わせる。それは目に見える表面的な部分だけでなく、まさに原子レベルで再結合される。

こういう訳になるのです。ことばを正確に使うだけで、この手の誤訳は防げるのです。

言いっぱなし、ほったらかしもあるのです。

さて、そういうわけあいのものだとして、次に不機嫌な読者が陽の光あたる快い小説に直面したとき、いったい心はいかように働くのか、その問題を考えてみなければならない。まずは不機嫌な気分が霧消する、よかれあしかれ、読者は遊びの精神の世界に入るのである

そして、その理由をわたしは話さなければならない。われわれが本を一度目に読むときに、左から右、行から行、ページからページと目を苦労して動かすまさにその過程が、本に対して身体が行う作業を複雑にしたが、本の内容がどこに書かれているかを覚えるまさにその過程が、われわれと芸術の鑑賞の間をつなぐ。 

「考えてみなければならない」にはponder熟考するということばが使われているのだから、その結論はとても大事なことなのです。だが野島訳からはその大事さがまったくわからないのです。 よかれはいいとして、「あしかれ」ってなんなのです。しかも「遊びの精神」が野島訳ではこのエッセイの他のどこともつながっていないのです。すなわち誤訳なのです。

すべては態度の問題なのです。日本語になっていない表現を放置すると、訳者の願望が忍び込んでくるのです。

We ought to remain a little aloof and take pleasure in this aloofness while at the same time we keenly enjoy—passionately enjoy, enjoy with tears and shivers—the inner weave of a given masterpiece.

われわれは少し超然としていなければならない。そしてこの超然たることに喜びを味わわなくてはならない、が同時に、与えられた傑作の深々とした肌理を熾烈に味到する--熱烈に味わい、涙し、おののきながら味わいつくさねばならないのだ。

われわれはいま読んでいる傑作の、内側に組み立てられた絡み合いを熱烈に--情熱的に、涙やおののきともに--楽しんでいる間も、同時にいささか冷めていて、その冷めた中で喜びを感じなければならない。

ought toはenjoyにはかかっていないのです。「与えられた傑作の~味わいつくさねばならないのだ」はどこから出てきたのです。それは訳者の願望なのです。「傑作を味わいつくさねばならない」と書いてあってほしいという自分の願望があるのです。それとought to take pleasure in this aloofnessが頭の中で合成された結果「超然たることに喜びを味わわなくてはならない」になったのです。訳にもなにもなってないまるでデタラメなのです。知ってる単語を適当に並べて訳したと称するのは大学入試までなのです。

 

The mind, the brain, the top of the tingling spine, is, or should be, the only instrument used upon a book.

小説はまずもって心に訴えるものだ。心、頭脳、ぞくぞくする背筋の天辺にあるもの、これが小説読みに使えるただ一つの道具であり、またそうでなければならないものなのである。

こちらの「心」はmindなのです。

In order to bask in that magic a wise reader reads the book of genius not with his heart, not so much with his brain, but with his spine. 

芸術の魔法にどっぷりと身を浸すために、賢明な読者は天才の作品を心や頭で読まず、背筋で読む。

こちらの「心」はheartなのです。辞書引けばわかるけど、mind知性とheart情緒は対極にあるのです。本文でemotional readingが否定されていることを覚えていれば、heartは情緒のことだと容易にわかるのです。後者がnot so much with brainなのは、頭がいいからあんまり頭を使わずにすむからなのです。全然使わないわけではないのです。比べて見れば一目瞭然とは言わないが、比べて考えるしかないのです。野島氏はそれもやってないのです。浅倉氏も念のため簡単な矛盾チェックをしておけばだまされないのです。