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めちょっく!ハンナ・アーレント『人間の条件』もデタラメ訳だった!

※アーレントは腐女子で、肝心なところでホモの話をしています。あとで整理します。

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ハンナ・アーレント『人間の条件』(ちくま学芸文庫、志水速雄訳)は、タイトルからして間違っている。アーレントは「読者だまし」を駆使して、読者を誤った理解に誘導している。理由は推測するしかないが、まともな文学作品(とても少ない)にはみな共通している。ウケのいい本に擬装してお金を稼ぐとか、自らの思想を実践しているとか、だまされなかった読者はその巧妙さから自分の理解が正しいと確信できるとか。

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そこで、労働の人間的条件は生命それ自体である。(p.20)

The human condition of labor is life itself.

人間が労働する状況は生活すべてである。(犬っち訳)

あきらかな間違い以外は志水氏の訳語にしたがった。conditionには

状態、状況、様子、様相

という意味がある。the human conditionは「人間の条件」ではなく「人間の状況」であり、ここでは人間が自分の生活において行うことすべて(家事や育児など)が「労働」だという意味。

そこで、仕事の人間的条件は世界性(ワールドリネス)である。(p.21)

The human condition of work is worldliness.

人間が仕事する状況は世俗である。

worldliness

世俗、俗事

という意味。また、この本全体にわたって、worldをwordのダジャレにしており、「世界」だけを意味するときはworld itselfを使っている。ここなら

人間が仕事する状況はことばにおいてである。

となる。

活動actionとは、物あるいは事柄の介入なしに直接人と人の間で行われる唯一の活動力であり、多数性という人間の条件、すなわち、地球上に生き世界に住むのが一人の人間manではなく、多数の人間menであるという事実に対応している。(p.21)

Action, the only activity that goes on directly between men without the intermediary of things or matter, corresponds to the human condition of plurality, to the fact that men, not Man, live on the earth and inhabit the world.

活動は、話題や理由といった話のタネを持っていなくても、人びとの間で直接行われ続ける唯一の活動力で、多数性という人間の状況にて行われ、人類ではない、人びとが現世に生き世俗に暮らすという事実に直面している。

thingもmatterも辞書にある訳語。あとで見るがpluralityは世俗ではないから、to the factはactionにかかる。menは人間だが男性的な意味合いがある。without the intermediaryはmenにかかる。ここで現世earthが出てくるが、つまりこの本は天国heaven地獄hellを隠れた主題にしているということだ。正しく解釈すると意味は(のちほど)明快になる。

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ギリシア思想によれば、政治的組織を作る人間の能力は、家族(oikoia)と家族を中心とする自然的な結合と異なっているばかりか、それと正面から対立している。都市国家の勃興は、人間が「その私的生活のほかに一種の第二の生活である政治的生活」を受け取ったということを意味していた。「今やすべての市民は二種類の存在秩序に属している。そしてその生活において、自分自身のもの(idion)と共同体のもの(koinon)との間には明白な区別がある」。ポリスの創設に先立って部族や種族のような血縁にもとづいて組織された単位が、ことごとく解体したというのは、アリストテレスが勝手に作った理論や見解ではなく、単純な歴史的事実であった。人間の共同体に現われ必要とされるすべての活動力のうち、ただ二つのものだけが政治的であるように思われ、アリストテレスが政治的生活と名づけたものを構成するように思われた。すなわち活動action(praxis)と言論speech(lexis)である。そして、そこから人間事象の領域(プラトンがいつも呼んでいた言葉を用いれば、ta ton anthropon pragmata)が生じるのであるが、そこからは単に必要なもの、あるいは有益なものは、一切厳格に除かれている。(p.45-46)

ここは「活動」と「言論」が出てくる大事なところ。

According to Greek thought, the human capacity for political organization is not only different from but stands in direct opposition to that natural association (whose center is the home (oikia) and the family). 

ギリシャ思想によれば、ポール的組織を受け入れる人間の能力は、こういった家と家族を中心とする自然な結合とは違っているというのみならず、正反対である。

politicalはpoleとのダジャレで、political organizationはお〇ん〇んないしお〇ん〇ん関係のこと。capacityそれを受け入れる能力つまりホモは、お尻お口があるが、自然な結合とは正反対である。thatは前段の「自然のままの単なる社会的交わりthe natural, merely social companionship of the human species」を受ける。アーレントはホモ好き腐女子でした。あとでわかる。

The rise of the city-state meant that man received "besides his private life a sort of second life, his bios politikos. Now every citizen belongs to two orders of existence; and there is a sharp distinction in his life between what is his own (idion) and what is communal (koinon)."

都市国家の勃興は、人間がこのようなメッセージを受け取ったということを意味していた。「私的な生活からはなれた、第二の人生の種類、ビオスポリティコスである。今やすべての市民は二つの存在の命令に従うのだ;そして生活における、自分自身のもの(idion)と共同のもの(koinon)をはっきり区別するのだ」。

このメッセージを受け取ったというわけ。private lifeは異性愛のこと。orders of existenceは存在の命令、つまり性欲。

It was not just an opinion or theory of Aristotle but a simple historical fact that the foundation of the polis was preceded by the destruction of all organized units resting on kinship, such as the phratria and the phyle.

フラトリアやフュレーといった、親族関係が残人びとの親密な関係はすべて、ポリスの創設に先立って破壊されたが、それは たんにアリストテレスの意見や理屈というわけではなく、単純な歴史的事実だ。

polisもpoleとのダジャレ。organized units resting on kinship=the phratria and the phylle。organized unitsは同性愛関係にある人たちのこと。フラトリアフュレーはポリス的だが、まだ親族関係が残っていた。

Of all the activities necessary and present in human communities, only two were deemed to be political and constitute what Aristotle called the bios politikos, namely action (praxis) and speech (lexis),

人間の共同体に必要で、かつ実際にあった活動力のうち、二つだけがポール的だと思われていた。それはアリストテレスがビオスポリティコス、つまり活動(praxis)と言論(lexis)と呼んだものである。

アリストテレスがpraxisとlexisと呼んだ。praxisがお尻で、lexisがお口。lexisにはreadという意味もある。活動は多数性にもとづく、つまりだれとでもヤリます。犬っちの記憶では、ギリシャではお口は堂々とはできなかったようです。労働はもちろんオ〇ニーです。

out of which rises the realm of human affairs (ta ton anthropon pragmata as Plato used to call it) from which everything merely necessary or useful is strictly excluded.

人間の出来事の領域(ta ton anthropon pragmataとプラトンは呼んだことがある)が言論と活動からそびえ立つ。それからは必要なだけのもの、役に立つだけのものはみな徹底的に排除される。

realmはrealとのダジャレになっている。affairはラブアフェアとのダジャレ。used toは「よく~したものだ」という成句ではない。もしプラトンがよくこう呼んでいたのなら有名な句になっているはずだが、まったく知られていない。ここはお〇ん〇んの話。

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しかし、都市国家の創設によってのみ、人間は、その世界全体を政治的領域である活動と言論の中で送ることができることはもちろんだが、この二つの人間的能力が同じものに属し、すべての能力のうちで最高の能力であるという確信は、すでにソクラテス以前の思想に現われていた。たとえば、ホメロスのアキレウスの大きさは、彼を「大きな行為の成就者、大きな言葉の発話者」として眺めるときにのみ理解することができる。近代の理解と違って、彼の言葉が大きいと考えられたのは、それが大きな思考を表明しているからではなかった。むしろ、『アンティゴネ』の最後の詩句から知られるように、「大きな言葉」(megaloi logoi)の資格とは、手痛い打撃に反撃し、老年の終わりになって思慮を教えることにあるからである。思考は言論よりも下位にあったが、言論と活動は同時的なもの、同等のもの、同格のもの、同種のものと考えられていたのである。これは、もともと、ほとんどの政治活動は、暴力の範囲外に留まっているのであるから、実際に、言葉によって行われるということを意味したばかりではない。もっと根本的にいうと、言葉が運ぶ情報や伝達とはまったく別に、正しい瞬間に正しい言葉を見つけるということが活動であるということをも意味をしていた。ただむきだしの暴力だけが言葉を発せず、この理由のゆえに、暴力だけは偉大ではありえないのである。古代も比較的末期になって、戦争と言論の術(rhetoric)が、教育の二つの基本的な政治課題として現われたときも、その現われかたは、やはり、この過去のポリス以前の経験と伝統に支えられ、それに従っていた。(p.46)

活動は「隠喩」で行われるという、この本でももっとも大事なところの一つ。 

However, while certainly only the foundation of the city-state enabled men to spend their whole lives in the political realm, in action and speech, the conviction that these two human capacities belonged together and are the highest of all seems to have preceded the polis and was already present in pre-Socratic thought. 

しかし、都市国家の創設によってのみ、人びとが全人生をポール的領域、活動と言論に費やすことができるようになったのはたしかだが、人間の二つの受け入れ能力は根はひとつであり至高であることの確信は、ポリスに先立つように思われ、ソクラテス以前の思考にはすでにあった。

lifeはもちろん労働と関係があるが、 志水訳の「世界」でmaは仕事と関係してしまう。なんでこうしたの?

that these two human capacities belonged together and are the highest of all

two human capacitesつまりお尻とお口で精〇を受ける能力が至高。あと思考thoughtは「」のこと。

The stature of the Homeric Achilles can be understood only if one sees him as "the doer of great deeds and the speaker of great words."

ホメロスのアキレウスの名声は、「偉大のうちの行う者は約束を守り、偉大のうちのの話す者は慎重に話す」と、彼のことを考えてみてはじめて理解できる。

アーレントは読者を殺しにかかっており

「大きな行為の成就者、大きな言葉の発話者」

では二つの能力は本当は一つだという考えが出てこない。

(the doer of great) deeds and (the speaker of great) words.

がただしい。一つのものはgreatであり、あとでわかるが隠喩あるいはホモのこと。deedは「証書にして譲渡する」という意味。お口は慎重に話す、つまりだれとでもヤリません

In distinction from modern understanding, such words were not considered to be great because they expressed great thoughts; on the contrary, as we know from the last lines Antigone, it may be the capacity for "great words" (megaloi logoi) with which to reply to striking blows that will eventually teach thought in old age.

近代的理解とはことなり、これらのことばは、偉大な思考を表現したがゆえに偉大だ、とは思われなかった。むしろ、『アンティゴネー』の最後の数行から考えると、偉大な思考は「偉大なことば」(megaloi logoi)を受け取る能力だろう。それは驕り高ぶった風への報いであり、最後に古の思考を教える。

striking blowというとギャラクティカマグナムを連想させるが、「驕り高ぶった風」で、テーバイ王クレオーンのふるまいのことなど。『アンティゴネー』には原注があるが、訳にはない。この注がヒントになっている。striking blowsはblow jobフェ〇チオのこと。それにgreat wordsホモのフェ〇チオで応えて、thoughtが生まれる。もちろんこっちはアーレントのダジャレ。

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Thought was secondary to speech, but speech and action were considered to be coeval and coequal, of the same rank and the same kind;

思考は言論から生まれたが、言論と活動は同時、同等、同格、同種だと考えられた。

近代的理解では思考をことばで表現するが、 ギリシャでは隠喩を理解すると思考が生まれる。あるいはフェ〇チオし合って恋が生まれる。

and this originally meant not only that most political action, in so far as it remains outside the sphere of violence, is indeed transacted in words,

このことは、ことばが暴力の領分の外にあるかぎり、もっともポール的活動はことばによる約束を守って行われるというだけでなく、

 このindeedはin-deedのダジャレであり、アキレウスのdeedsと対応している。

but more fundamentally that finding the right words at the right moment, quite apart from the information or communication they may convery, is action.

より本質的に、ことばが伝える情報やコミュニケーションと離れ、イケてることばをイケてるときに使うことが活動であるということを元来意味していた。

rightは難物なので、分節のすすんでいない俗語の「イケてる」にした。またここもフェ〇チオの話。

Only sheer violence is mute, and for this reason violence alone can never be great.

純粋な暴力はことばをともなわず、そのため暴力だけでは偉大にはなりえない。

ことばをともなう暴力は偉大になりうる。あるいは、乱暴なだけのフェ〇チオは偉大ではない。つぎの文はそのことを書いている。 

Even when, relatively late in antiquity, the arts of war and speech (rhetoric) emerged as the two principal political subjects of education, the development was still inspired by the older pre-polis experience and tradition and remained subject to it.

ギリシャ=ローマ時代の終わり近くになってさえ、戦争と言論(修辞)の技術が教育の第一のポール的主題として浮かび上がり、それまでの発展はなお、ポリス以前の古い経験と伝統の影響を受け、教育の対象となりつづけた。

ずっとギリシャ=ローマの伝統を受け継いで発展していたということ。こにはっきり修辞ということばを出しているが、修辞が「読者だまし」のことだと知らないとスルーする。

この段落の主張は、言論とそこから生じる思考と活動はみな「隠喩的」であるということである。

 

『アンティゴネー』の注は訳にはないので、犬っちが訳したものだけ。

The literal translation of the last lines of Antigone (1350-54) is as follows: “But great words, counteracting [or paying back] the great blows of the overproud, teach understanding in old age.” The content of these lines is so puzzling to modem understanding that one rarely finds a translator who dares to give the bare sense. An exception is Holderlin’s translation: “Grosse Blicke aber, / Grosse Streiche der hohen Schultern / Vergeltend, / Sie haben im Alter Gelehrt, zu denken."

『アンティゴネー』の最後の数行(1350-54)の直訳はこんな感じだ:「しかし、大いなることばは、驕り高ぶった風への報いだが、古の理解を教える」。最後の数行は近代的理解には意味不明すぎて、あるがままに訳そうとした勇気のある翻訳者を見つけるのは難しい。例外はヘルダーリンの訳だ:「だが、大いなる睨み、/高い肩からの大いなる悪ふざけへの/その報いで、/お前は古の考えに気づいた」。

本文よりわかりやすくなっているが、the great blowsのgreatは隠喩のことではなく、普通に「大いなる」という意味。アーレントは近代の翻訳者にダメ出ししているが、『アンティゴネー』の岩波文庫は

広言は、手ひどい打撃を蒙って、

償うてのち、

老いに至って、思慮を教える定め。

とても近代的なのです。

An anecdote, reported by Plutarch, may illustrate the connection between acting and speaking on a much lower level. A man once approached Demosthenes and related how terribly he had been beaten. "But you," said Demosthenes, "suffered nothing of what you tell me." Whereupon the other raised his voice and cried out: "I suffered nothing?" "Now," said Demosthenes, "I hear the voice of somebody who was injured and who suffered" (Lives, "Demosthenes"). 

プルタルコスが書いた逸話が、活動することと話すことの関係を、ずっと低レベルで説明してくれるかもしれない。一人の男がデモステネスに寄ってきて、自分がいかにひどく殴られたか訴えたことがある。「しかし」デモステネスは言った「君の言ったことでは、なにも苦しまなかった」。男はすぐさま声をあげた。「なにも苦しまなかったですって?」「いま」デモステネスが言った「わたしはある人の声をきいている。彼はケガをした。また、彼は苦しんだ」。(Lives, "Demosthenes").

somebody who was injured and who sufferedが、活動と言論のように、一つのものの二つの側面だということ。

A last remnant of this ancient connection of speech and thought, from which our notion of expressing thought through words is absent, may be found in the current Ciceronian phrase of ratio et oratio.

こういった、言論と思考の古のつながりにもとづいて、ことばを通じて思考を表現するというやりかたはもうなくなったが、つながりの最後の残滓は、まだ生きているキケロ的なフレーズ「ratio et oratio」に見出せるかもしれない。

ratio et oratioは「合理と祈り」くらいの意味だが

ことばが伝える情報やコミュニケーションと離れ、イケてることばをイケてるときに使う

意味ではなくratioとoratioの字面が似ているところに本質を見るのが古代の思考である。

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アーレントはlabor, work, actionが有名だが、実はそれぞれisolation, loneliness, solitudeが対応している。しかしこれは「隔絶」「孤独」「独居」(ちくま学芸文庫『人間の条件』)、「孤立」「ロウンリネス」「孤独」(みすず書房『全体主義の起源』)、「隔離」「孤立」「孤独」(大阪大学の池田光穂氏)などと、てんでバラバラである。これでは本など読めるわけがない。labor, work, actionも、ことわりもなく独自の訳語をあてるやつがたまにいる。要するにこいつらは学問をする気がないのだ。さらに、間をつなぐものとしてsensuality, goodness, wisdomがあり、達成されるものとしてhappiness, worldlessness, antiquityがある。つまり

  • isolation-sensuality-labor-happiness
  • loneliness-goodness-work-worldlessness
  • solitude-wisdom-action-antiquity,plurality

という対応になっている。 

絶対的な意味での善(グッドネス)というのは、古代ギリシャ=ローマの「役立つ(グッド・フォー)」ものとか「卓越した(エクセレント)」ものと違って、西洋の文明で知られるようになったのは、ようやくキリスト教が勃興してからである。それ以来、私たちは、ありうる人間活動の重要な一変種として善行について知るようになった。(『人間の条件』、p.104)

Goodness in an absolute sense, as distinguished from the “good for” or the “excellent” in Greek and Roman antiquity, became known in our civilization only with the rise of Christianity. Since then, we know of good works as one important variety of possible human action.

goodnessとantiquityは絶対的に違う。ギリシャと違いキリスト教は絶対神だということ。志水訳はgood worksを「善行」としているが、これはgood+workだから、workを「勤め」、good worksを「善い勤め」といったように揃えて訳さないとわけがわからなくなる。good worksはhuman actionではあるが、actionとworkは違うものだから、変種だと言っている。とにかくgoodness-workの線ができて、これはantiquityやactionとは仲良しではない。

善を愛する人が本質的に宗教的な人間となり、古代の知と同じく、善が本質的に非人間的(ノン・ヒューマン)で超人間的な特質をもっているのは、善行に固有の無世界性のためである。(p.108)

It is this worldlessness inherent in works that makes the lover of goodness an essentially religious figure and that makes goodness, like wisdom in antiquity, an essentially non-human, superhuman quality.

religious figureは「宗教的な人間」ではなく、「」。the lover of goodnessがキリスト教的な絶対神になるわけ。

志水訳は

that makes goodness (, like wisdom in antiquity,) an essentially non-human, superhuman quality

と解釈している。しかしgoodnessはworkと仲良しだから世俗のものだ。このthat節は

that makes goodness (, like wisdom in antiquity, an essentially non-human, superhuman quality)

とするのが正しい。antiquityとqualityで韻も踏んでいる。これはantiquityの定義になっていて、たんにギリシャ・ローマ時代というだけでない、超人間的なものだといっている。
戻ると、worldlessnessは「世俗でないこと」という意味だが、wordlessness「ことばがない」とのダジャレになっている。つまり「感動」のことだ。この文は「感動」が世俗のはずのgoodnessを愛する人を宗教的にする(地獄のほう)という倒錯を述べている。フランス革命やナチズム、Black Lives Matterを思えばいい。goodness-work-worldlessnessとwisdom-antiquityとは別の線だ。 

しかもなお、善への愛は、知への愛と違って、少数者の経験に限定されない。ちょうど孤独が、独居と違って、すべての人の経験の範囲内にあるように。したがってある意味では、知や独居よりは、善や孤独の方が、政治に対してはるかに大きな関係をもっている。独居は、哲学者の生活様式として、真の生活様式となりうる。これにたいして、はるかに一般的な経験である孤独は、多数性という人間の条件にあまりにも矛盾しているので、長時間にわたってはとても堪えられるものではなく、それが人間存在を完全に滅ぼしてしまわないためには、善行を目撃する唯一の想像上の証人、神の同伴を必要とする。(p.108)

And yet love of goodness, unlike love of wisdom, is not restricted to the experience of the few, just as loneliness, unlike solitude, is within the range of every man’s experience. In a sense, therefore, goodness and loneliness are of much greater relevance to politics than wisdom and solitude; yet only solitude can become an authentic way of life in the figure of the philosopher, whereas the much more general experience of loneliness is so contradictory to the human condition of plurality that it is simply unbearable for any length of time and needs the company of God, the only imaginable witness of good works, if it is not to annihilate human existence altogether.

the figure of the philosopherは普通の意味とは違うから注意。禁欲主義者のこと?

politicsも「ポールの技術」にしたほうがよさそうです。

したがってある意味では、知や独居よりは、善や孤独の方が、ポールの技術に対してはるかに大きな関係をもっている。

loneliness-goodness, solitude-wisdomの対比が作られた。

that it is simply unbearable for any length of time and needs the company of God, the only imaginable witness of good works, if it is not to annihilate human existence altogether

志水訳ではitをlonelinessとしているが、これはplurality(ないしthe human condition of plurality)が正しい。訳すと

多数性における人間の条件は、どんなに時間をかけてもただ単に産まれることはない。それは神の同伴を必要とする。神は善行の、考えうるただ一人の証人だ。もっとも人類を絶滅させようとしているのでなければだが。

pluralityには神の同伴が必要、つまり世俗ではないと言っている。man's experienceとunbearable(子供を産めない)がダジャレになっている。ここのgood worksは出産のこと。最後のはギャグ。

この本ではhuman conditionは「人間が〇〇する状況」という意味だが、ここでだけ「人manが人間humanになる条件」という意味で使われている。つまり、人が人間でいるのは神様のおかげだというのがアーレントの主張の根幹をなす。

世界から隔絶してはじめて達成され、自己自身の私的存在の境界線内部ではじめて味わうことのできる幸福というのは、周知のように、「苦痛の欠如」以外のなにものでもありえない。この幸福の定義は、首尾一貫した快楽主義なら、どんな快楽主義であろうと、同意しなければならないものである。(p.171)

The happiness achieved in isolation from the world and enjoyed within the confines of one’s own private existence can never be anything but the famous “absence of pain,” a definition on which all variations of consistent sensualism must agree.

isolation-sensuality-(labor)-happinessの線ができた。これはworld世間から引きこもっている状態だと書いてある。別の箇所でisolationとlaborの話はたっぷり出てくる。laborはanimal laboransという言い回しがあり、動物的。オ〇ニーの話。philosopherはたぶん禁欲主義者。

たったこれだけ読んだだけで

  • 動物的:isolation-sensuality-labor-happiness
  • 世俗的:loneliness-goodness-work-worldlessness
  • 超人間的:solitude-wisdom-action-antiquity,plurality

がわかった。pluralityのGodはキリスト教ではなくギリシャの神様なので、「神のもとの平等」ならぬ「神様のもとの多数性」である。

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まとめると

  • 世俗的な「ことば」は「感動」を生み、それが人を地獄に落とす
  • 多数性は神様のなせるものである。つまり天国である
  • 言論はお口、活動はお尻。活動は多数性でヤリまくるが、お口は慎重
  • 活動・言論・思考はみな隠喩的である

多数性とは不平等のことである。相手かまわずヤリまくる。リベラルな、平等のもとでの多様性(こっちは地獄)とは相容れない。これも読者だまし。