プリキュア・イターナルサンライズ!

プリキュアは2023年に車椅子の巨乳科学者・虹ヶ丘ひろみ/キュアヘリオと三体合体巨大ロボ「イターナルV」が登場し、2024年は火星が舞台のロボット刑事ものになるのです。

ナボコフ「良い読者と良い作家」全解説

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ナボコフのエッセイ「良い読者と良い作家」の解説です。このエッセイはショーペンハウアーなどの読書論のパロディになっており、一見すると常識的な読書論ですが、本当はトリック小説を読む方法を説明しています。トリック小説とは作者の意図をことば遊びを駆使して似ても似つかぬ見かけの小説にしたものです。ナボコフはこれを蝶や鳥の擬態にたとえています。彼はトリック小説こそ小説の神髄だと考えており、このエッセイでもトリックを駆使しているため、みんな騙されています。訳の赤字の部分は野島訳と異なる、つまり彼が騙された部分です。


わたしのやりかたは、まずはじめに作品の構造の謎を探偵的に調べるものである。

「作品の構造」は小説に仕掛けられたトリックのこと。小説を読むときにはまずトリックを解いてからというのがナボコフのやりかたです。

「良い読者になるには」や「作者への親切さ」--こういったものが、これらさまざまな作者のさまざまな議論の副題ににふさわしいかもしれない。なぜならわたしはささいな点を入念に、しつこいほどに、いくつかのヨーロッパの傑作を愛をこめて扱うつもりだからだ。百年前、フローベールは愛人への手紙にこんなことを書いた: Commel’on serait savant si l’on connaissait bien seulement cinq a six livres: 5,6冊の本のことをだけをよく知っていれば、人はどんな学者にもなれるのです。

 「ささいな点」はトリックの手がかり・糸口のこと。〇ビは「ジキル博士とハイド氏」しか読んでいませんが、ナボコフはそこで小説のトリックを解説していました。もっともこれもトリックでわかりにくくされていましたが。

本を読むときにはささいな点を見つけ、それをもみほぐさねばならない。本の、陽のようなかけらが丹念に集められた*あと*でなら、くだらない一般論をやってもかまわない。だが、人が既存の一般論をもって読み始めたたなら、彼は端から間違えており、本の理解が始まる前に、そこから離れてどこかに行ってしまう。たとえば「ボヴァリー夫人」をブルジョワ階級への糾弾だという先入観をもって読み始めることほど、作者をうんざりさせ、アンフェアなことはない。芸術の仕事は必ずや新しいことばを創り出すことであることを、われわれはいつも念頭に置かねばならない。したがってわれわれが最初になすべきことは、その新しいことばをできるだけ丹念に、それがまったく新しく、われわれが知っていることばとはどんなわかりやすい関係も持たないと考えて取り組み、調べることである。この新しいことばを丹念に調べたあとではじめて、他のことばや他の知識の分野との関連を研究しよう。

赤字は有名な「細部を愛撫する」の箇所ですが、意味はぜんぜん違います。本を読むときにはトリックの手がかりに気がつき、それを解かねばならないという意味です。副題の言い換えになっています。トリックが解けた後なら、くだらない一般論、すなわち学問をやってもかまわない、と言っています。物語論や批評のことのようです。

芸術が作り出す「新しいことば」は、作品固有のことばのこと。独自の象徴と、その作用が生み出す論理です。表現や意味の連想を使って論理を組み立てます。作品のテーマを表象するのは表に見えている文章や映像ではなく、この、作品独自のことばによります。もちろん普通の小説家でも「日常のことば」と「小説のことば」を区別しているが、たいていそれはレトリックの違いでしかありません。

もう一つの疑問がある: 場所と時代についての事実を、小説から収集できると考えてよいか?ブッククラブがこれぞ歴史小説の決定版だと言いふらしてまわっている頭の悪そうなベストセラーの類から、過去に起きたことを学べると思うほどのボンクラなどいるのか?それでは傑作ならどうか?牧師の居間しか知らなかったジェイン・オースティンが描いた、準男爵たちや広大な庭とともに描かれた地主階級のイギリスをあてにできるか?それから、「荒涼館」は幻想的なロンドンを描いた素晴らしい小説だが、これは百年前のロンドンの研究だといえるか?答えはノーだ。同じことがこの一連の講義の他の小説にもいえる。真実は、偉大な小説は大がかりなかつぎ話であり--この講義で扱う小説は究極のかつぎ話だ。

偉大な小説はみなトリック小説だ。野島氏はfairy taleをお伽噺と訳しましたが、かつぎ話が正しい意味です。それより前に書いてある長々としたことはfairy tale=お伽噺名と思わせる文脈を作っています。 

時間と場所、季節の色合い、筋肉と知性の動き、これらすべては天才作家(われわれの推測する限りだが、わたしは正しい推測だと信じる)にとっては、皆のための真実を貸し出す有料図書館から借りられるような古臭いイメージではなく、それ独特の驚きの一連であり、芸術の巨匠が身に着けた、彼ら自身の固有の表現である。大したことのない作者には決まり文句の飾りが残されている: これらはことばの再発明で作者を悩ませることはない。彼らはお好みのものの並び、古臭い小説のパターンからできる限り搾り取ろうとするだけだ。これら作者が、パターンで決まる限界の範囲で生み出せるいろいろな組み合わせは、口当たりよくすぐ消えてしまうが、かなり楽しませてくれるかもしれない。なぜなら、大したことのない読者は、彼ら自身の考えが好ましく変装しているのを見つけ出すことを好むからだ。しかし本物の作家、惑星をいくつも自転させ、眠る男を造形しては彼の肋骨をはやりながら引っこ抜こうとするような友、そのような作者には自由に使える既存の意味はなにもない: 彼はそれらを彼自身で生み出さねばならない。ことばを書くわざは、小説へ発展してゆくことばを見るわざの最高のものでなければ、実に空しい仕事だ。ことばの大事なところは(実在性を抜きにすれば/リアリティが出づれば)申し分なくリアルかもしれないが、みながこのことばの全体だと思っている、目に見える部分のどこにも存在しない: 目に見える部分はカオスであり、このカオスに向かい作者は「消え失せろ!」といい、ことばをきらめかせ、溶け合わせる。それは目に見える表面的な部分だけでなく、まさに原子レベルで再結合される。作家はことばの地図を作り、それが描く自然のものに名をつける最初の人間だ。あそこにあるベリーは食べられる。わたしの行く手を急に横切った、あのブチの生き物は飼われているようだ。あの木々の間に見える湖はオパール湖、あるいはもっと芸術的に、汚水だまりと呼ぼう。あの霧は山だ--ならあの山は征服しなければ。未踏の斜面を登った芸術の巨匠は、頂上で、風の吹く尾根で、いったい誰と出会うと思う?息切れした幸せな読者だ。そこで彼らはどちらともなく抱擁し、本が永遠にある限り、永遠に結びつけられる。

「それ独特の驚きの一連であり、芸術の巨匠が身につけた、彼ら自身の固有の表現である」はトリックのこと(連想や文脈からなるネットワークみたいなもの)。minor大したことのない作家は、ことばの再発明=トリックを考えたりはせず、学問で扱うような物語のパターン の組み合わせで書く。非トリック作品がephemeralだというのは、作品の寿命のことではなく、何度か読めば飽きてしまうということのようだ。そういう作品はかなり楽しめるかもしれない。なぜなら大したことのない読者は自分の考えが「変装」しているのを見つけるのが好きだから。

ことばを書く芸術はトリックの芸術でなければ空しい。みんなはことばの意味は(作品の)目に見える部分に現れると思っているが、トリック小説のことばの意味は目に見える部分には現れない。それはことばを溶け合わせることで目に見えないところに現れる、このエッセイではトリックはキラキラしたイメージで語られます。

トリックを解読すると読者は作者が長年の親友のように感じられます。それが最後の部分です。

講演旅行で長居するはめになった地方大学で、ある夕方、簡単なクイズを出した--読者の定義を十個。この十個から学生は、良い読者が兼ね備えるべき四つを選ばねばならない。リストは忘れてしまったが、覚えている限りでは定義はこんな感じだった。読者を良い読者とする四つの答えを質問から選びなさい:

  • 読者はブッククラブに参加しているべきである
  • 読者は自分自身とヒーローやヒロインとの一体感を感じるべきである
  • 読者は社会経済的観点に集中するべきである
  • 読者は行動や対話のある物語を、そうでないものより好むべきである
  • 読者は本を読む前に映画を見ておくべきである
  • 読者は作者のタマゴであるべきである
  • 読者は想像力を持っているべきである
  • 読者は記憶力を持っているべきである
  • 読者は辞書を持っているべきである
  • 読者はある芸術のセンスをもっているべきである

学生たちは感情的な一体化、行動、そして社会経済的や歴史的見かたに大きく寄っていた。もちろん君たちが思うように、良い読者は想像力、記憶力、辞書、そして、ある芸術のセンスの持ち主だ--このセンスが、機会があるときにはいつでも、わたしが自分自身と他の人にも育もうと企んでいるものだ。

 「ある芸術のセンス」はトリックのセンス。記憶力と辞書は重要だが、それについての記述を編集者が削除したと書いてある。これは編集者がトリックを知らないせいです。序文を書いたアップダイクはたぶん、そこに出てくる夫人は間違いなく良い読者・作家です。

ところで、わたしは読者ということばを非常に大ざっぱに使っている。実に興味深いことだが、人は本を*読む*ことはできない: 再読することができるだけである。良い読者、大した読者、能動的で創造的な読者は再読者なのだ。そして、その理由をわたしは話さなければならない。われわれが本を一度目に読むときに、左から右、行から行、ページからページと目を苦労して動かすまさにその過程が、本に対して身体が行う作業を複雑にしたが、本の内容がどこに書かれているかを覚えるまさにその過程が、われわれと芸術の鑑賞の間をつなぐ。絵を見る場合は、たとえ本のように深みや発展していく要素があったとしても、われわれは目を特別な道筋で動かす必要はない。絵は一度目に見るときでも時間の要素は全く入ってこないのだ。本を読むときには、われわれがそれに精通するために時間をかけなければならない。われはれは、描写全体を一度にとらえ、それからその細部を楽しめるような身体的な器官(絵に対する、われわれの持つ目のような)を持っていない。しかし二度目、三度目、四度目の読書では、われわれはある程度までは、絵に対してふるまうように本に対してふるまうようになるのだ。しかし、物理的な目、進化の怪物的傑作と、知性、さらに怪物的な偉業を一緒に考えるのはやめよう。本、フィクションの作品であれ科学の作品であれ(この二つの境界線は広く思われているほどはっきりはしていないが)、小説はなにより知性に訴える。知性、脳、ゾクゾクする背筋の上にあるもの、これが読書に使える唯一の道具であり、そうすべきものだ。

本に何度も目を通してどこになにが書いてあるかを覚えなさい。トリックの糸口はなにげない記述やセリフにあるので、本の内容をほぼ丸暗記することになります。(ナボコフの場合は)四回も読めば本の内容が頭の中に入り、トリックを解くときにいちいち本の該当箇所を探さなくてもよくなります。知性はナボコフの読書において本質的な役割をはたすのですが、〇ビにあるけどみんなにはないのです。

さて、それはそうと、われわれは憂鬱な読者が陽のような本に遭遇したときの知性の働きを熟考せねばならない。まず、憂鬱な気分が消し飛び、そして、読者は一か八かのゲームの精神に浸る。若い読者が本を読み始める努力は、彼が古臭いとか堅すぎると内心思っている人たちがその本を誉めている場合は特にだが、なかなかその気になるのは難しい。しかし一度その気になれば、さまざまで豊かな見返りがある。芸術の巨匠は本を創造するときに彼の想像力を使ったのだから、本の消費者もまた彼の想像力を使うのが自然でフェアだろう。

読書はゲームであり、作者と読者の想像力比べである。熟考したのだから大事なことです。古い本にもトリック小説がある。ここはショーペンハウアーが「読書について」で古典について述べた部分のパロディ。

読者の場合には、しかし、少なくとも二種類の想像力がある。そこで、この二つのうちのいずれが本を読むときに使うべき、正しいものかを見てみよう。まず、単純な情緒の援けを借りるはっきりと個人的な特質の、つまらないほうの想像力がある。(情緒的な読書であるこの階層にはさまざまな亜種がある) 自分や、自分の知人あるいは知人だった人に起きたことを思い出させるからといって本の一場面に感激する。あるいは、繰り返しになるが、自分の過去の一部として懐かしく思っている国や風景や暮らしぶりを呼び起こすからといって、読者がその本を素晴らしいものだと思う。あるいは、読者がなす最悪のことだが、登場人物と一体感を覚える。このつまらない類は、わたしが読者に使ってほしい種類の想像力ではない。

想像力には情緒的・共感的なものと非個人的なものがあり、読書では後者を使う。普通の人、minorな人は共感的な想像力を使う。これも読者は我が意を得たりと思うが、自分のことを言われています。

では読者が使う正しい道具とは何か?それは非個人的な想像力と、芸術の喜びである。わたしの考えでは、確立すべきは、読者と作者の知性の間で均衡した芸術のバランスである。われわれはいま読んでいる傑作の、内側に組み立てられた絡み合い※を熱烈に--情熱的に、涙やおののきともに--楽しんでいる間も、同時にいささか冷めていて、その冷めた中で喜びを感じなければならない。こういった大事なもののなかでまったく客観的でいることはもちろん不可能だ。価値あるものはすべて、ある程度は主観的だ。たとえば、そこに座っている君たちはわたしの理想的な学生かもしれないが、わたしは君たちにとっては悪夢のような教師かもしれない。しかし、わたしが言っているのは、読者は想像力を抑えるべき時や場合を知り、作者が文脈に位置づけたことばを、この人が試行錯誤することで明確にしなければならないということだ。われわれはなにげないものを見、聞かなければならない。作者の作り出した人々の部屋や衣服や物腰の絵を描かねばならない。「マンスフィールド・パーク」のファニー・プライスの目の色や、彼女の凍える狭い部屋の調度は重要なことなのだ。

 ※ここは原文ではweaveだが、意味的にはwebが正しいので校正ミスだろう。

「非個人的な想像力」は非常に説明しづらいのだが、ロラン・バルト(リチャード・ハワード)『作者の死』

In France, Mallarme was doubtless the first to see and foresee in its full extent the necessity of substituting language itself for the man who hitherto was supposed to own it; for Mallarme, as for us, it is language which speaks, not the author: to write is to reach, through a preexisting impersonality — never to be confused with the castrating objectivity of the realistic novelist — that point where language alone acts, "performs," and not "oneself":

これとおなじものです、というか『作者の死』はナボコフのこのエッセイのパロディなのです。「(人間に)先立って存在するもの」という意味で、動物に由来するものです。人間はことばの動物ですが、これを用いてことばのはたらきを弱め、ことばが覆い隠していた自分の中の動物に触れるのです。人間の情緒はその妨げになるので使ってほしくないのです。読者は「均衡した芸術のバランス」を確立できたときに大きなキラキラのリアリティを感じることができます。

「内側に組み立てられた絡み合い」はトリックのことで、トリックを解いている間にも冷静でいなさいと言っています。

「作者が文脈に位置づけたことばを、この彼が試行錯誤することで明確にする」とは、作品の文中のことばは作品の文脈に置かれているが、これを文脈から離れて自由に意味を考えてみるということです。非個人的な想像力と同じです。文脈にそって考えたり、試行錯誤しながら自由に考えたりして、一貫した意味、作者の意図を明らかにします。これが副題の「探偵的」です。

〇ビは読んでいませんが、「マンスフィールド・パーク」のファニー・プライスの目の色がトリックの手がかりになっているのでしょう。そういう普段は気にもとめないようなものにトリックの手がかりはある。絵を描くと気づきやすいと言っています。

われわれはみな異なった気質の持ち主だが、読者が持ち、あるいは育むべき最良の気質は、芸術のものと科学のものの組み合わせだとわたしは即答できる。熱狂的な芸術家だけでは本に対する心構えが主観的になりがちだし、そして、科学の判断の冷静さは直観の熱をやわらげてしまうだろう。もし、そうではなく、自称読者が情熱と忍耐--芸術家の熱情と科学者の忍耐--をまったく欠いていれば、彼は偉大な文学を楽しむことは不可能だろう。 

トリック作品を楽しむには情熱・主観性と忍耐・客観性が必要だということ。一段落割いているので大事なことです。ここでいう忍耐はトリックを解く忍耐であり、長いよーだるいよーといったものではありません。

文学は一人の少年が、すぐ後ろを大きな灰色の狼に追われ、狼だ!狼だ!と叫びながらネアンデル谷から出てきたときに生まれたのではない: 文学は一人の少年が、狼だ!狼だ!と叫んで出てきたが、彼の後ろに狼などいなかったときに生まれたのだ。かわいそうな小さな友が、ウソをつきすぎたため、とうとう本物の獣に食われてしまったことはまったく重要なことではない。だが、ここに重要なことがある。高い草に隠れていた狼と、ホラ話に出てきた狼のあいだには、キラキラ光る仲介者があるのだ。その仲介者、そのプリズムが文学のわざなのだ。

the art of literature文学のわざは事実と空想のあいだにある。トリックはキラキラしたイメージで語られる。

文学は発明である。小説は作り話である。物語を真実の物語と呼ぶのは、芸術にとっても真実にとっても侮辱だ。すべての偉大な作家は偉大な詐欺師だが、それをいうなら母なる自然は至高の詐欺師だ。自然はつねに欺く。繁殖のための単純な策略から、蝶や鳥の並外れて洗練された保護色の錯覚まで、自然には奇跡的な魔法と策略の体系がある。小説の作家は自然の導きに従っているだけだ。

文学とはトリックの発明であり、トリックは人を欺く。芸術は自然の模倣だとする古い芸術観のパロディ。中身はおなじで見た目だけが違うのが「変装」で、中身は違うが見た目がソックリなのが「擬態」。蝶が枯れ葉などに擬態している。

ここで少し、狼の吠える森のわれわれの小さな原始の友に戻ると、このように言えるかもしれない: 芸術の魔法は彼がおっかなびっくり見つけた狼の影の中に、彼の狼の空想の中に、そして、よい物語となった彼のトリックの物語の中にあった。彼がとうとう死んだとき、彼を伝えるその物語は、かがり火のまわりの暗がりの中で、よい教訓ともなった。しかし、彼は小さな魔法使いだった。彼は発明家だった。 

the magic of art芸術の魔法は物語・教訓・トリックの中にある。magicは「手品」の意味もあり、イメージとしては両方。

作家は三つの視点から考えられる: 彼は物語作家として、教師として、魔法使いとして考えられよう。大した作家はこれら三つ--物語作家、教師、魔法使い--を兼ね備えているが、支配的であり、彼を大した作家たらしめているのは彼の中にいる魔法使いである。

作家は物語作家、教師、魔法使いを兼ねているが、魔法・トリックこそが作品・作者を偉大たらしめる。

物語作家には、われわれは娯楽、もっとも単純な種類の心的興奮、感情移入、場所や時代の離れた異郷を旅する喜びを求める。やや違った知性は、必ずしもより賢いというわけではないが、作家の中の教師を求める。宣伝家、道徳家、予言者--あとに行くほどよい教師だ。われわれはたんに道徳教育だけでなく、直接的な知識や単純な事実を教師に求めるかもしれない。悲しいかな、フランスやロシアの小説家を読む理由が、華やかなパリや陰気なロシアでの暮らしのなにがしかを知るためだという人々をわたしは見てきた。最後に、なによりも、偉大は作家は永遠に偉大な魔法使いである。天才の独自の魔法を理解しようとするとき、彼の小説や詩の文体、修辞、様式を学ぼうとするときにわれわれが本当に心躍る部分を思い出すここに彼はいる。

「mental excitement of the simplest kindもっとも単純な種類の心的興奮」はたぶん、えっちな興奮のことです。われわれにはナボコフも含まれるから、彼はエンタメ小説は価値あるものとします。やや違った知性には、ナボコフは含まれません。ヒューマニズム小説もフェミニズム小説も、世間で文学と思われているものの大半はゴミなのです。

偉大は作家は永遠に偉大な魔法使いである。

ここは「トリック小説は何度読んでもおなじところを楽しめる」と言っているのです。

天才の独自の魔法を理解しようとするとき、彼の小説や詩の文体、修辞、様式を学ぼうとするときにわれわれが本当に心躍る部分を思い出すここに

「天才の独自の魔法」はあきらかにトリックのことだし、「彼の小説や詩の文体、修辞、様式」もこのエッセイではトリックを指すと考えるのが自然です。だからトリック小説はおなじところを何度読んでも楽しめると言っていると考えられます。だから何度か読めば飽きてしまうephemeralなminorな小説とは違い、alwaysなのです。〇ビの実感ではどうも脳に不可逆的変化があるようで、何年も前に何十回も見たハピネスチャージプリキュアや魔法少女まどか☆マギカをビビッドに思い出して楽しむことができ、また新たに見ても楽しめるのです。しかし、トリック小説を100%理解することは難しく、何度読んでも新発見があるのも事実なのです。 

偉大な作家の三つの様相--魔法、物語、教訓--は、それ独特の、一つになった輝く印象へと混じりあおうとする。なぜなら、芸術の魔法はまさに物語の骨、思想の髄の中にまで入り込むことができるからだ。そっけないが明快で、よく整理された思想の傑作が、「マンスフィールド・パーク」のような小説に劣らず、ディケンズの官能的なイメージの豊かな流れのように、読者の心に芸術の震えを引き起こすことがある。わたしには小説の良しあしを試すよい方法は、結局は、詩の精密さと科学の発見を一つにすることだと思える。この魔法の陽を浴びるために、賢い読者は天才の本を情緒で読まず、頭はさほど使う必要がなく※、背筋を伸ばして読む。読書中はいささか冷め、いささか超然としていなければならないとしても、秘密が明らかになるゾクゾクが背筋にくる。そして官能的でも知的でもある喜びとともに、われわれは芸術家がトランプでお城を作るところ、そのお城が美しい鋼とガラスのお城に変わってゆくところを見ることになる。

※賢い人は普通の人より頭を使わなくても本が読めるという意味。

魔法・物語・教訓は混じり合ってひとつの輝かしいものとなるため、良い小説には物語や教訓の要素もあるとよい。

詩の精密さと科学の発見、先に出てきた芸術の情熱と科学の忍耐をあわせた、芸術と科学のすべてを駆使するのがトリック小説を読む秘訣。

トリックが解けると背筋がゾクゾクし、目の前のものがキラキラして見える。前のほうに

この、ことばの大事なところは(実在性を抜きにすれば)申し分なくリアルかもしれないが

と書いてあるので、このキラキラこそがことばの大事なところ、リアリティです。小説の価値はリアリティにあり、それを生み出すのがトリックだということです。世間ではレトリックや文体がリアリティを生み出すと考えられています。

 the precision of poetry詩の精密さは、リーマン予想のように、偶然そうなっているだけのものにある、必然的な精密さのことなのです。これを数学者が解決することで得られる科学のリアリティが、トリック小説を読んで得られる文学のリアリティ、偶有性と等しいということなのです。したがってwordとworldはたんなるダジャレではなく、正確に等しいのです。

 

最後のほうの文

 In order to bask in that magic a wise reader reads the book of genius not with his heart, not so much with his brain, but with his spine. It is there that occurs the telltale tingle even though we must keep a little aloof, a little detached when reading. 

 は別の訳しかたもあります。

この魔法の陽を浴びるために、賢い読者はこの天才の本を情緒で読まず、頭はさほど使わず、背表紙と一緒に読む。読書中はいささか距離を置き、いささか忘れていなければならないとしても、(著者名を見て)ゾクゾクが起きるのはそこだ。


このエッセイ全体(もしかしたら本全体)でダジャレになっています。たとえば最初のほうの文

In reading, one should notice and fondle details.

この本を通じてreadはreedのダジャレです。

剃毛するときは、細部に注目して愛撫しなければならない。

There is nothing wrong about the moonshine of generalization when it comes after the sunny trifles of the book have been lovingly collected.

generalizationはgenerationのダジャレ、moonshineは密造酒、triflesはtri-flutes三つのフルートのダジャレで、男性の縦笛との対比です。bookはこの本を通じて女性のことです。

女性のすてきな三つの性感帯を集中して愛撫してイッたときにおつゆが出るのはなにもおかしくない。

If one begins with a ready-made generalization, one begins at the wrong end and travels away from the book before one has started to understand it. 

readyはladyのダジャレ、generalizationはgenerationのダジャレです。

もしひとが経産婦ではじめてしまったら、彼は間違った端からはじめてしまい、そのことをわかりはじめる前に女性から遠ざかってしまう。


B級ホラーアニメ映画「巨蟲列島」を例にしてみます。

蟲に詳しい主人公の睦美とクラスメイトが乗っていた修学旅行の飛行機が島に墜落しました。島の蟲は巨大化しており、人間を襲います。

場面:蟲から逃げてきた森

歩美:睦美は、なんでそんなに蟲にくわしくなったんだ?

睦美:…

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(睦美がいちど顔を伏せて目をそらし、顔を上げる)

睦美:昔、コンビニの店先でアイスを食べてたんです

歩美:子供のとき?

睦美:はい、まだ小学生でした

 

回想:コンビニの前

(睦美の肩にカマキリがいる)

睦美:取って…取って!

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(地面に落ちたアイスクリーム)

睦美:怖い…

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(稲穂、カマキリを取り、両手でやさしく包む)

稲穂:もう大丈夫だぞ、少女

睦美:ありがとう

稲穂:怖くない

睦美:えっ?

稲穂:少女が思っているほど、蟲は怖くない

稲穂:そう思うのは、少女が蟲のことをよく知らないからだ

睦美:知らない…から?

回想終わり

 

場面:森に戻る

美鈴:ああ、その女に丸め込まれて蟲好きになったってか?

睦美:違います!

睦美:師匠はわたしに、蟲がひとつのことを、長い年月をかけて極めてきたという話を教えてくれたんです

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(睦美が横を向く)
歩美:どういうこと?

(睦美が正面を向く)

睦美:昆虫は純粋に、自分たちが生き延びるためだけに進化してきました

睦美:師匠はそのことの素晴らしさを、わたしに理解させてくれたんです

美鈴:ハン!いい話風にまとめんじゃねえよ。なーにが師匠だ。ただの蟲好き変質者じゃねえかっ

睦美:…

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(睦美が顔を伏せて目をそらす) 

蟲のことを教えてもらうだけなのに「変質者」は常識的ではないし、「理解させてくれた」もこういう文脈ではあまり使わないことばです。 〇ビは大写しになったアイスクリームを「精〇」の象徴だと考えました。蟲一般の話に「蟲とエッチする」という文脈を与えるため、「変質者」を足掛かりに試行錯誤し、シークエンスのことばを次のように置き換えました。置き換え後は置き換え前の特殊な意味になっています。

置き換え前 置き換え後
蟲のことをよく知らないから 蟲を使ったエッチを知らないから
蟲好き 蟲を使ったエッチ好き
師匠 蟲を使ったエッチの師匠
生き延びる エッチする
素晴らしさ 気持ち良さ
理解させてくれた 教え込んでくれた
変質者 小学生にエッチなことをする性犯罪者

場面:蟲から逃げてきた森

歩美:睦美は、なんでそんなに蟲にくわしくなったんだ?

睦美:…

(睦美がいちど顔を伏せて目をそらし、顔を上げる)

睦美:昔、コンビニの店先でアイスを食べてたんです

歩美:子供のとき?

睦美:はい、まだ小学生でした

 

回想:コンビニの前

(睦美の肩にカマキリがいる)

睦美:取って…取って!

(地面に落ちた精〇のイメージ)

睦美:怖い…

(稲穂、カマキリを取り、両手でやさしく包む)

稲穂:もう大丈夫だぞ、少女

睦美:ありがとう

稲穂:怖くない

睦美:えっ?

稲穂:少女が思っているほど、蟲は怖くない

稲穂:そう思うのは、少女が蟲を使ったエッチを知らないからだ

睦美:知らない…から?

回想終わり

 

場面:森に戻る

美鈴:ああ、その女に丸め込まれて蟲を使ったエッチ好きになったってか?

睦美:違います!

睦美:蟲を使ったエッチの師匠はわたしに、蟲がひとつのことを、長い年月をかけて極めてきたという話を教えてくれたんです

(睦美が横を向く)

歩美:どういうこと?

(睦美が正面を向く)

睦美:昆虫は純粋に、自分たちがエッチするためだけに進化してきました

睦美:蟲を使ったエッチの師匠はそのことの気持ち良さを、わたしに教え込んでくれたんです

美鈴:ハン!いい話風にまとめんじゃねえよ。なーにが蟲を使ったエッチの師匠だ。ただの蟲を使ったエッチ好きの、小学生にエッチなことをする性犯罪者じゃねえかっ

睦美:…

(睦美が顔を伏せて目をそらす) 

元の会話はなんとなく全体的に不自然でしたが、作者の意図がこれで一目瞭然です。この例では局所的に考えて解けましたが、一般的には作品全体を見ながら解く必要があります。

あとは映画の「エッチに見える」部分をひたすら探して集中するだけです。どうやら睦美が目をそらすときはエッチな話題のようです。彼女が目をそらす場面をほかにも探してみます。

場面:睦美が蟲のことを熱く語っている

睦美:わたしの尊敬する師匠が、本に書いていたんです

睦美:どんな有名な学説よりも、いま自分が見たものを信じ、直感と想像の翼を広げるのだって

美鈴:ペラペラよくしゃべるんだな、蟲のことになると

睦美:ああっ

美鈴:やっぱ織部ってきめえわ

美鈴:蟲女

睦美:…

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(睦美が顔を伏せて目をそらす) 

 場面:クラスメイトがジガバチの幼虫に食われている

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(睦美が顔を伏せて目をそらす)

睦美:幼虫が死んだので、快楽物質が切れたんです

 ごらんのありさまなのです。