深読みも考察もやりません

昆虫は純粋に、自分たちが生き延びるためだけに進化してきました。師匠はそのことの素晴らしさを、わたしに理解させてくれたんです

テッド・チャン「ゼロで割る」全訳

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ゼロで割る

1

数をゼロで割っても、答えは無限に大きな数にはならない。その理由は、除算は乗算の逆として定義されていることにある:もしある数をゼロで割り、それからゼロをかければ、元の数に戻る。しかし、無限大にゼロをかけても結果はゼロでしかなく、他のどんな数でもない。ゼロをかけてゼロでない結果になるものは存在しないのだ。つまり、ゼロ除算の結果は文字通り「定義されていない」

1a

リーヴァス夫人が近づいてきたとき、レネーは窓の外を見ていた。

「一週間で退院だって?入院したとはいえないね。院長はあたしが出たがらないことをずっと知ってるよ」

レネーは礼儀正しく作り笑いした。「あなたももうじきですわ」リーヴァス夫人は病棟で他人を振り回していた。彼女の企図はフリにすぎないことはみな知っていたが、うっかり成功してしまわないように、看護助手たちはうんざりしつつ気をつけていた。

「ふん、連中はあたしに出て行ってもらいたがってるよ。あんたが観察室で死んじまったら、連中がどんな目に合うか、あんただって知ってるだろ」

「ええ、わかります」

「それが連中の心配事の全部さ。あんたもわかるだろ。連中が気にするのはそれしか…」

レネーは話を打ち切って窓に注意を戻し、空に形作られてゆく飛行機雲を見ていた。

「ノーウッドさん?」看護師が読んだ。「ご主人が着きましたよ」

レネーはリーヴァス夫人にまた礼儀正しく微笑み、出て行った。

1b

カールは前にもサインをしたことがあり、最後に看護師が用紙を処理しに持って行った。

彼はレネーを入院させたときのことを覚えていた。はじめて受けた問診も覚えており、あらかじめ用意されていたすべての質問が彼に、思いやることを忘れさせなかった。彼はそれに淡々と答えていた。

「はい。彼女は数学の教授です。紳士録にも載っているはずです」

「いいえ、わたしは生物学です」

それから:

「必要なスライドの箱を忘れてきたのです」

「いいえ、彼女が知りえたはずがありません」

それから、いよいよ:

「はい、あります。二十年ほど前、わたしがまだ大学院生だったときです」

「いいえ、飛び降りようとしました」

「いいえ、レネーとわたしは当時は知り合っていません」

それから、それから。

そして彼らは、彼が適格で支援的だろうと確信し、レネーを外来治療に切り替えることにした。

思い返して、カールはぼんやりとだがおかしな気がした。この苦しい体験のすべてにおいて、ただ一度をのぞき、どんな既視感もなかったのだ。彼が病院、医者や看護師とやりとりしていた間:ずっと漠然と感じていたのは、まったく退屈で機械的ルーチンの無感情の一種だけだった。

2

1は2と等しいという、よく知られた「証明」がある。それはいくつかの定義から始まる:「a = 1、b = 1とする」そしてそれは「a = 2a」、つまり1は2と等しいという結論を導き出す。証明の中でこっそり使われているのはゼロ除算で、その点でこの証明はすべての公式を無意味で無効にし、崖っぷちから落ちている。ゼロ除算を許せば、1と2が等しいことだけでなく、どんな二つの数でさえ--実数でも虚数でも、有理数でも無理数でも--等しいと証明できる。

2a

カールと帰宅するとすぐ、レネーは書斎の机に行き、論文をすべて裏返しにし、それらをやみくもに一か所に積み上げた。論文を積んでいるあいだ、紙の端がめくれるたびに彼女はビクッとした。彼女は紙を燃やそうかと思ったが、いまとなっては象徴的な意味しかなかっただろう。彼女はそれらを決して目に入れないことで、同じことができた。

医者ならこれを強迫的な行動だといっただろう。レネーはこんなバカどもの患者でいたことの屈辱を思い出し、顔をしかめた。彼女は、施錠された病棟で、24時間体制だろう看護助手の観察下で、自殺企図者して保護入院していたことを思い出した。医者は実に恩着せがましく、魂胆は自明だったが、その問診も思い出した。彼女は決してリーヴァス夫人のように他人を振り回したりはしなかったが、やろうと思えば簡単なことだった。たんに「まだ健康とはいえないけど、本当によくなったと実感しています」と言うだけで、あんたたちはほとんど退院させる気になってたわよ。

2b

カールが廊下を歩いて帰る前に、戸口からレネーをちらっと見た。彼はその日のこと、まる二十年前、彼自身が退院した日のことを思い出した。彼の両親が彼を迎えにきて、自宅に戻るまでに母親が、みながどれだけ彼に会えることを楽しみにしているかとバカげたことを言い、彼は辛うじて彼女の腕を肩から振りほどくことを自制した。

彼は、自分の観察期間にしてもらえていたら感謝していただろうことを、レネーにしていた。はじめは彼女は面会を拒否したが、彼にどうしても会いたくなったときに彼がいないということにならないように、毎日見舞いに来ていた。ときどき彼らは話をし、ときどきたんに庭を歩いた。彼は自分のしていることに間違ったところは見つけられなかったし、彼女がそのことを感謝していることも知っていた。

だが、彼のあらゆる努力にもかかわらず、彼が感じていたのは彼女へのわずかな義務感でしかなかった。

バートランド・ラッセルとアルフレッド・ホワイトヘッドは「数学原論」で、形式論理に基づき数学に厳密な基礎づけをしようとした。彼らは公理にふさわしいと考えたものから始め、徐々に複雑な定理を導くのにそれらを使った。362ページまでで、彼らは「1 + 1 = 2」を証明するのに十分な達成を遂げた。

3a

七歳の子供のころ、親戚の家を探検していて、レネーは床の滑らかな大理石のタイルの並びから、完全な正方形を見つけることに、魔法にかかったように熱中した。タイル1つ、2かける2、3かける3、4かける4:それらのタイルの並びはぴったり正方形にフィットした。当然だ。どの側から見ても同じだった。それだけでなく、それぞれの正方形は一つ前のものよりタイル奇数個分だけ大きかった。これは啓示だった。結論は必然的だった:それはそれへの正しさを持ち、タイルの滑らかで冷たい感じ、そして、信じがたく細い線でタイル同士がフィットする方法がそれを裏づける。彼女はその正確さに震えた。

あとになり、いくつもの成就と業績があった。二十三歳での驚異的な博士論文、高い評価を受けた一連の論文。彼女はフォン・ノイマンの再来といわれ、いくつもの大学が彼女を欲しがった。彼女はそれらにほとんど興味を示さなかったが。彼女が興味を持っていたのは、タイルの物質感のように強烈で、それらのフィットのように正確な、彼女が学んだすべての定理に共通する正しさの感覚に備わる適切さだった。

3b

カールは、今日の彼である人間が生まれたのは彼の企図のあと、ローラと会ったときだと感じていた。病院を退院後、彼は誰とも会う気分ではなかったが、友人の一人がなんとか彼をローラに会わせた。彼ははじめ彼女を拒絶していたが、彼女のほうは一枚上手だった。彼女は彼が傷ついているあいだは愛したが、よくなったとたんに放り出した。彼女を知ることを通じて、カールは感情移入について学び、彼は作り変えられた。

ローラは修士号を取得すると大学から去ったが、彼は生物学の博士号のため同じ大学にとどまった。彼はこのあとの人生でいろんな危機や失恋を経験したが、二度と絶望することはなかった。

カールは、彼女がどういった種類の人間なのかを考えて驚嘆した。彼は大学院いらい、彼女とは話していなかった。彼女のここのところの人生はどんなだろう?彼は、彼女が愛したほかの人間を知りたがった。すぐに、彼はそれがどんな種類の愛で、どんな種類ではないのかを思い出し、それに大きな価値を見出した。

4

十九世紀はじめ、数学者はユークリッド幾何学以外の幾何学を研究しはじめた。これらの新たな幾何学は、まったく不合理な結果を生んだが、論理的な矛盾は生まなかった。あとになり、これらの非ユークリッド幾何学ユークリッド幾何学と同程度に矛盾しないことがわかった:ユークリッド幾何学が無矛盾であれば、これらも論理的に無矛盾なのだ。

ユークリッド幾何学の無矛盾性の証明は数学者から身をかわしていた。十九世紀の終わりまでにえられていた最大の結果は、算術が無矛盾であるかぎり、ユークリッド幾何学も無矛盾であることの証明だった。

4a

すべてがはじまったそのとき、レネーはそれをたんなるいらだちのもとだと思っていた。彼女は廊下を歩いていき、ピーター・ファブリーシの研究室の、開けたままのドアをノックした。「ピート、ちょっといい?」

ファブリーシは椅子を机から押し戻した。「ああ、レネー。なにごとですか?」

レネーは部屋に入っていったが、彼がどう反応するかはわかっていた。彼女はいままで数学の問題を学科のだれにも相談したことはなかった。つねにその逆だった。無理もない。「手伝ってもらえないかなと思って。二週間前にわたしが話していた、いまやっている形式化のこと、覚えてるわよね?」

彼はうなずいた。「それで公理系を書き換えるやつですね」

「それよ。いいかしら、二三日前から本当にバカげた結論が出はじめてきて、いまではわたしの形式化がそれ自身と矛盾してるのよ。ちょっと見てくれない?」

ファブリーシの表情も予想通りだった。「本当ですか…もちろん喜んで」

「やった。最初の二三ページで、問題のありかを例示したわ。残りの部分はあなたの参考のためよ」彼女は論文の薄い束をファブリーシに手渡した。「わたしがこれをもとに説明したら、あなたもわたしとまったく同じ結論になると思うわ」

「たぶんそうでしょうね」ファブリーシは最初の二ページほど見た。「どれだけかかるかわかりませんが」

「急ぎじゃないわ。できそうなら、わたしの仮定のどれかが、こんな感じに怪しいか考えてみて。わたしも頑張ってる最中だし、なにかわかったら伝えるわ。いいかしら?」

ファブリーシは微笑んだ。「あなたは今日の午後にもまた来て、問題点を見つけたと言うと思いますよ」

「それはないわ:これには新鮮な目が必要なの」

彼は手を広げた。「まあ、やってみましょう」

「ありがとう」ファブリーシが彼女の形式化を完全に理解するとは思えなかったが、とにかく、もっと機械的に見てチェックできる人さえいればよかった。

4b

カールはレネーとは彼の同僚主催のパーティで出会った。彼は彼女の顔のとりこになった。彼女の顔はきわだって地味で、ほとんどのときは陰気に見えたが、パーティのあいだに彼女は二度微笑み、一度顔をしかめた。そのときはまるで他の感情など知らないかのように、彼女は表情全体でその感情をあらわした。カールは驚きにうたれた:彼には人の笑う顔や、しかめた顔が、しわが寄らなくても当然のようにわかった。どうすれば彼女の顔がこんなに表情豊かで親しみやすく、なのに普通の人にはわからないものになったのか、彼は知りたがった。

 彼がレネーを理解し、表情を読めるようになるには時間がかかったが、しかしそれは間違いなく価値があった。

さて、カールは自分の書斎の安楽椅子に座り、マリーン・バイオロジー誌の最新号を膝にのせたまま、レネーが廊下の向かいの彼女の書斎で紙をくしゃくしゃに丸める音に耳をそばたてた。その夜、彼女はずっと仕事をしており、彼がちらっと見たときはいつものポーカーフェイスだったが、聞くからにイライラがつのっていた。

 彼は雑誌をどけ、椅子から立ち上がり、彼女の書斎の入り口のほうへと歩いていった。彼女は机の上に本の、ある巻を開いていた。そのページにはいつものヒエログリフの方程式が満載で、ところどころロシア語の注釈がはいっていた。

彼女は何かを探していたが、かすかなしかめ面をしてあきらめ、その巻をバタンと閉じた。カールは彼女がブツブツと「使えないわ」と言うのを聞いた。彼女はその大きな本を本箱に戻した。

「そんなことしてると血圧が上がるぞ」彼は冗談めかして言った。

「偉そうにしないで」

彼は驚いた。「そんなつもりはないよ」

レネーは向きなおり、彼をにらみつけた。「自分の仕事がはかどるときとそうでないときくらいわかるわ」

肝が冷えた。「や、すまなかった」彼は退いた。

「どうも」彼女は本棚に注意を戻した。カールは離れ、そのにらみを解読しようとした。

5

1900年の第二回国際数学者会議で、ダフィット・ヒルベルトは、彼の考える二十三のもっとも重要な数学の未解決問題をリストアップした。彼のリストの二番目の項目は、算術の無矛盾性の証明を求めるものだった。そのような証明がより高度な数学の相当部分の無矛盾性を保証するはずだった。その証明が保証するものは、本質的に、1と2が等しいことは決して証明できないということだった。これを非常に重要な事柄だと考えた数学者はほとんどいなかった。

5a

レネーはファブリーシが口を開く前に、彼が言おうとしていることを知っていた。

「あれはわたしが見てきたなかでも最低のクソッタレでした。断面の違うブロックを形の違う穴にはめる、子供のおもちゃをご存じですか?あなたの形式体系を読むのは、だれかがブロックを一つとって、それを全部の穴にはめ込んで、毎回完璧にはまるのを見ているようでした」

「それで間違いはなかったのかしら?」

彼は首を振った。「わたしにはね。あなたと同じところでつまづきました:わたしはもうそこからしか考えられない」

レネーはもうつまづきにはいなかった:彼女はその問題をまったく違う方法でやってみたが、それはもとの矛盾を確かめただけだった。「ええ、やってくれてありがと」

「ほかにもだれかに見せるんですよね?」

「うん、バークレーのキャラハンに送ろうと思ってる。わたしたち、この前の春の会議から連絡を取りあってるの」

ファブリーシはうなずいた。「わたしもこの前の彼の論文には大いに感銘を受けました。彼がなにかわかったら、教えてください:わたしも知りたい」

レネーが彼女自身についていうなら、「知りたい」より強いことばを使っただろう。

5b

レネーは仕事でイラついていただけか?彼女は実のところ数学を難しいと思ったことはなく、知的興味をそそられていただけだとカールは知っていた。これは彼女の歯が立たない問題に出くわした、はじめてのケースなのだろうか。それとも、そもそも数学はみなこんなものなのだろうか。カール自身は骨の髄まで実験家だった。彼はレネーがいかに新しい数学を生むのか、まったく知らなかった。バカげて思えるが、ひょっとして彼女のアイデアが枯渇したのかも?

レネーはいまさら、神童が成長して並みの大人になる幻滅を気にする歳ではなかった。とはいえ、数学者の多くは彼らのもっとも優れた業績を三十歳以前にあげていた。スケジュールより数年遅れではあるが、統計が追いついてきたのかと彼女は不安になってきたのかもしれない。

それはありそうになかった。彼はほかの可能性をすこし、ぞんざいに検討してみた。彼女がアカデミアに冷笑的になったとか?彼女の研究が専門的になりすぎて失望したとか?それともたんに仕事に飽きたとか?

カールは、そういった不安がレネーの行動の原因だとは信じられなかったが、ある漠然とした気分のことを想像できた。もしそれが事実なら彼にも移るだろうが、彼がいまレネーから受けている感じとは違うものだった。レネーを悩ませているのがなんであれ、彼には知りようのないことであり、そのことが彼を不安にさせた。

6

1931年に、クルト・ゲーデルは二つの定理を証明した。最初のほうはいわば、数学は、真かもしれないが本質的に証明不可能な言明を含む、というものだった。算術を含む形式体系はもっとも単純なものでさえ、明瞭で意味があり、どう見ても真であるが、形式的には真だとは証明できない言明を許してしまう。

彼の二つ目の定理は、算術の無矛盾性がまさにそのような言明だと主張するものだった。それは算術の公理を用いるかぎり、どうあがいても証明不可能なのだ。それは、形式体系としての算術は、たとえば「1 = 2」のような結果を生まないことを保証できない、ということだ。いままでこうした矛盾に出会ったことは一度もなかったかもしれないが、これからも絶対にないとは証明できない。

6a

もう一度、彼が彼女の書斎に入ってきた。レネーは机についたままでカールを見上げた。彼は毅然と言い始めた。「レネー、もはや自明だが…」

彼女はさえぎった。「あたしがイライラしているわけを知りたいのね?いいわ、教えてあげる」レネーは白紙を一枚取り出して、机の上においた。「よく聞いててね。すぐ済むから」カールはまた口を開いたが、レネーが身振りで黙らせた。彼女は深呼吸して書きはじめた。

彼女は紙のまん中に線を一本降ろし、二つの欄にわけた。片方の欄の上部に、彼女は数字の「1」を書き、もう片方に「2」を書いた。これらの下に記号をいくつかさっと走り書きし、さらに別の一列の記号にのばして、下の罫線の間に書いた。彼女は書いているうちに歯を食いしばってきた:字を書くのが指の爪で黒板をひっかくように感じられた。紙の三分の二ほど書いたところで、レネーは今度は記号の長い列をどんどん短く縮めていった。これが決定的な一筆よ、と彼女は思った。彼女は自分が紙に鉛筆を押しつけていることに気づき、意識的に手をゆるめた。つぎに彼女が書いた行で、記号の列は同じものになった。彼女は強く「=」と、紙の下部に中央の線をまたいで書いた。

彼女はその紙をカールに渡した。彼は、理解できないといった風で彼女を見た。「いちばん上を見て」彼はそうした。「今度はいちばん下を見て」

彼は顔をしかめた。「ぼくにはわからない」

「あたしは、任意の数が別の任意の数と等しくなるような形式化を発見したの。この紙には1が2と等しいという証明が書いてあるわ。数を二つ好きに選んでみて。わたしは同じようにそれが等しいって証明できるわ」

カールは何かを思い出そうとしているようだった。「これはゼロで割ってるんじゃないのか?」

「違うわ。ここには何も不正な操作はないし、きちんと定義されていない項もないし、関係のない公理をこっそり使ったりもしてないの。なんにもよ。この証明は使っちゃだめなものは絶対に使ってないわ」

カールは首を振った。「待ってくれ。1と2が等しくなりえないのは自明だろう」

「だけど形式的にはそうなのよ:あなたの手に証明があるわ。あたしが使ったなにもかもは、議論の余地は全くないと受け入れられているのよ」

「でもきみはこうして矛盾を導いた」

「それなのよ。形式体系としての算術は矛盾してる」

6b

「きみは自分の間違いがわからない、ということか?」

「違うわ。あなた聞いてないでしょ。あたしがこんなものでイライラしているだけだと思ってるよね?でも証明に誤りはないのよ」

「きみは、数学者が受け入れているものに誤りがあると言ってるのか?」

「そのとおりよ」

「きみは…」彼は言いかけてやめたが、すでに遅かった。彼女は彼をにらみつけた。もちろん彼女は本気だ。彼は彼女の言わんとしていることを考えた。

「わかった?」レネーが訊いた。「あたしはほとんどの数学に反証してしまったのよ:いまやそれはぜんぶ無意味だって」

彼女は興奮してきた。ほとんど錯乱している。カールはことばを慎重に選んだ。「どうしてそんなことがいえるんだ?数学はちゃんと機能している。その認識で科学と経済の世界がいきなり崩壊するなんてありえない」

「それは彼らが使っている数学がからくりでしかないからよ。どの月が三十一日あるか計算するために指の節で数えるような、記憶を補助するトリックなのよ」

「それとは別だろう」

「なぜそうなの?数学はもはや現実のものとからむものを完全に失くしちゃったの。虚数や無限小といった概念は考えられないのよ。いまや忌まわしき整数の足し算は、指で数えることとからむようなものはなにもない。1と1を足せばあなたの指ではいつでも2になるわ。でもあたしの論文では答えは無数にあって、それらはすべて等しく正しいの。すべて等しく間違っているということだわ。あなたが見たこともないほどエレガントな定理を書いてあげましょうか。でもそれは無意味な等式より意味のあるものにはならないけどね」

彼女は苦笑いした。「実証主義者は、すべての数学はトートロジーだとよく言ってたわ。連中は完全に間違えたの:数学は矛盾なのよ」

カールはほかのやりかたを試そうとした。「ちょっと待った。きみは虚数のことを言ったね。どうしてこれが、虚数に起きたことよりずっとひどいんだ?数学者も昔は虚数など無意味だと思っていたが、いまでは基本として受け入れられているじゃないか。これとまったくおんなじだ」

「いいえ、違うのよ。その解決策はたんに文脈をひろげただけで、ここではなんの役にも立たないの。虚数は数学に新しいものをもたらしたけど、あたしの形式化はすでにあるものの再定義なのよ」

「でも君が文脈を変えてしまえば、それを違う観点に置ける…」

彼女は目をむいた。「だめよ!これは足し算が公理からえられるのと同じくらい疑いなく、公理からえられるのよ。それはどうすることもできないの。ことばどおりに受け取っていいわ」

7

1936年に、ゲルハルト・ゲンツェンは算術の無矛盾性の証明を与えたが、それは超限帰納法といわれる、論争のタネになるテクニックを必要とした。このテクニックは証明で一般的に用いられるような方法とはいえず、算術の無矛盾性を保証するには適切なものとは思えなかった。ゲンツェンがしたことは、疑わしいものを仮定して自明なものを証明することだった。

7a

キャラハンがバークレーから電話してきたが、しかしなんの助けにもならなかった。きみの仕事は調べ続けるが、きみはなにか根本的で不穏なものを掘り当てたようだと彼は言った。彼女の形式化を発表するつもりなのか彼は知りたがった。なぜなら、自分たちの誰もが見逃した誤りがあっても、数学者コミュニティならきっと見つけられるだろうから。

レネーはほとんど耳に入っていなかったが、あとで返事をするとつぶやいた。このころ、とくにカールとの口論以来、彼女は他人と話すのが難しくなってきていた。学科のほかの人間は彼女に近づかなくなった。彼女の集中力はなくなり、昨夜は、どんな概念でも数学的な表現に変換できる形式化を発見する悪夢を見た:そして彼女は生と死が等価であることを証明した。

そこには彼女を怯えさせるものがあった:彼女が知性を失いつつある可能性だ。彼女ははっきりと思考の明晰さを失いつつあり、その可能性はかなり高かった。

おまえはなんてマヌケな女だと、彼女は自分をたしなめた。ゲーデルは彼の不完全性定理を発表したあと死のうとしたかしら?

だがこれは、美しく、神秘的で、彼女が知るうちでももっともエレガントな定理だった。

彼女自身の証明が彼女を嘲り、愚弄した。パズルの本の難問のように、ひっかかった!と言い、あなたが間違いを正しく飛び越え、あなたが自分が大失敗したところを見つけられたら。向きを変え、もう一度、ひっかかった!と言うだけだ。

彼女は、自分の発見の数学における意味合いを、キャラハンはよく考えるだろうと思った。数学の大半は実用的な応用はない。それは形式的な理論として独立しており、知的な美しさのために研究されている。だがそれも終わりだ。自己矛盾した理論は無意味で、ほとんどの数学者はいやになってやめてしまうだろう。

レネーが本当に憤ったことは、自分の直観に裏切られたことだった。忌まわしき定理には意味があった。それ独自の、理屈に合わない理由で正しいと感じられた。彼女はそれを理解し、それが真である理由を知り、それを信じた。

7b

カールは彼女の誕生日のことを考えて、微笑んだ。

「信じられないわ!あなた、どうして知ってたの?」彼女はセーターを手に階段を駆け下りてきた。

そのセーターは、前年の夏にバカンスでスコットランドに行ったとき、エジンバラのある店においてあったもので、レネーは気にしていたが、けっきょく買わなかった。彼はそれを注文し、当日の朝に、彼女が見つけられるようドレッサーの引き出しに入れておいた。

 「きみは見え見えだから」彼はからかった。二人ともそれは事実ではないことはわかっていたが、彼はそう言ってみたかった。

それが二か月前のことだった。たった二か月前。

いまは気分転換が必要な状況だ。カールが彼女の書斎へ行くと、レネーが椅子に座って窓の外を見つめていた。「ぼくがなにをしたか、あててごらん」

彼女は見上げた。「どうしたの?」

「今週末の予約のことだよ。ビルトモアのスイートが取れたんだ。くつろいでなにもせずに…」

「やめてちょうだい」レネーが言った。「あなたの腹はわかってるわ、カール。楽しいことなにかをさせて、あたしの頭をこの形式化からそらせようとしてるのね。でもそうはいかないわ。どんな考えがあたしに取りついているか、あなたは知らないから」

「まあ、まあ」彼は彼女の手を引っ張り、椅子から立たせようとしたが、彼女は振りほどいた。彼女がいきなり振り向いて彼と目を合わせたので、カールは一瞬立ちすくんだ。

「あたしがバルビタールに手を出そうとしてたって、知ってた?あたし、バカだったらよかったのに。だってこんなこと考えなくてすむもの」

彼はあっけにとられ、どう振る舞えばいいのかわからなかったが、言った。「しばらく考えるのはやめたらどうだ?悪いことじゃないし、頭も離れられるだろう」

「あたしの頭から離れられるようなものじゃないの。わからないと思うけど」

「説明してくれ」

レネーは息をつき、反対を向いて少し考えた。「あたしが感じるあらゆるものが、あたしにむけて矛盾を叫んでいるようなものだわ」と彼女は言った。「あたしにはもう四六時中、数がみんな同じに見えるの」

カールは黙っていた。それから、突然理解して、言った。「古典物理学者が量子力学にぶち当たったようなものか。きみが信じていた理論がとってかわられて、新しいほうにはなんの意味もないのに、どういうわけかあらゆる根拠がそれを支持する」

「ううん、ぜんぜん違う」彼女はほとんど見下すように一蹴した。「これには根拠なんていらないの。すべてがアプリオリなのよ」

「どう違うんだ?じゃあそれがきみの考えの根拠ってことだろ?」

「なに言ってるの?ふざけてるの?はかってみたら1と2がまったく同じ値だったということと、直観的にそう思うことの違いなのよ。異なった量という考えは、もうこれ以上、自分の頭に維持できないの。みんなまったく同じにしか思えない」

「でもきみは」彼は言った。「だれも実際にそんなことは経験できないだろう、とは言ってないよね。朝食前に六つの不可能事を信じるようなもんだ」

「あたしが経験することなんて、どうやってわかるの?」

「わかろうとしてるよ」

「いいかげんにして」

カールの忍耐が切れた。「わかったよ、勝手にしろ」彼は部屋を出ていき、予約を取り消した。

彼らはその後はほとんど話さなかった。必要なときに話しただけだった。三日後、カールが必要な顕微鏡スライドの箱を忘れ、家まで取りに戻ったときに、彼女のメモがテーブルに置いてあった。

カールは続く瞬間に二つのことを直観した。一つ目の直観とは、彼女が化学科からシアン化物を持ち去ったのではないかという疑いで、家のなかを必死で駆けたときだ:彼は、彼女がそんな行動に出たわけを理解できなかったため、彼女のためになにも感じることができなかったということの具体化だった。

二つ目の直観とは、中にいる彼女を大声で呼びながら、彼が寝室のドアを何度も叩いているときだった:彼は既視感を感じた。それは、状況に親しみを感じられそうになった唯一の瞬間だったが、にもかかわらず、それはグロテスクに反転していた。彼はビルの屋上の施錠された扉の反対側にいて、友人が扉を何度も叩き、やめるんだと叫んでいたのを思い出した。それは寝室ののドアの外側にいる彼が、床の上で恥ずかしさに身動きのとれない彼女のすすり泣きを聞けたときでもあった。その恥ずかしさはドアの反対側にいた彼がそうだったのと正確に同じだった。

8

ヒルベルトは言ったことがある。「もし数学的思考に欠陥があるのなら、われわれはどこに真理と確実さを見つけ出せばいいのか?」

8a

彼女の自殺企図は、残りの人生に烙印を押すのだろうか?レネーは知りたかった。彼女は論文の角を机の上でそろえた。世間の人はこれから彼女を、無意識的にでも、気がふれてるか情緒不安定かだと思うのだろうか?彼女は、カールもこのような不安を感じたことがあるかとは聞いたことがなかった。もしかしたら、彼女が彼の企図を責めたことがなかったからかもしれない。ずっと前のことだし、いま彼をみる人は、彼をただちに、全人的にみるだろう。

しかしレネーは自分も同じだとは言えなかった。いますぐに 彼女が数学を明晰に考えることは不可能だし、もとに戻れる自信もなかった。同僚がいまの彼女に会ったところで、たんにこう言うだろう、彼女は才能をなくしたと。

片づけ終わると, レネーは書斎を出てリビングルームに向かった。彼女の形式化が学会に広まったあとには、すでに確立している数学の基礎の総点検が必要になるだろうが、その影響は彼女が被ったものよりずっと小さいだろう。大半の数学者はファブリーシのようなものだ。彼らは証明を機械的にたどり、納得して、それだけだ。彼女に近いくらいにそれを鋭敏に感じとった者だけが、矛盾を本当に理解し、それを直観できるだろう。キャラハンはそのひとりだ。彼女は、彼がその証明を、日ごとイライラが増すなかでどうあつかうのか知りたかった。レネーはエンドテーブルにつもったほこりに、曲がりくねった図形を描いた。以前ならカーブを意味もなくパラメータ化して、その特性を調べたかもしれない。いまはそこにはなんの意味も見出せなかった。彼女の描いたものはみなぐちゃぐちゃだった。

 彼女は多くの人と同じく、数学の意味は宇宙に由来しない、逆に宇宙に意味を与えているのだと、つねに考えていた。物理的な実在は他のものより大きいわけでも小さいわけでもないし、似ているわけでも似ていないわけでもない。それらはたんにそうであり、存在する。数学は完全に独立しているが、種類や関係を与えることで、事実上、物理的実在に体系的な意味を供給している。それは内在的な本質を説明するものではなく、可能な解釈にすぎない。

だがそこまでだった。数学は物理的実在から外されたら最後、一貫性がなく、形式理論は一貫性がなければ無意味だ。数学は経験主義だった。それでしかなく、彼女にはなんの興味もなかった。

これから彼女はどうすべきか?レネーには学究生活をやめて手作りの革製品を売るようになった知人がいた。彼女はいくらか時間をかけて、すべきことを取り戻すことを必要としていた。そしてそれはまさに、カールがこのかたずっと、彼女がそうするのを支えようとしていたことだった。

8b

カールの友人に、親友同士の二人の女性、マーリーンとアンがいた。何年も前、マーリーンが自殺を考えていたとき、彼女はアンには助けを求めなかった:彼女が助けを求めたのはカールだった。彼とマーリーンは話をしたり、沈黙をわかちあったりして、夜を徹したことが二三度あった。アンが、彼がマーリーンと共有していたものに少し嫉妬しつづけていたこと、彼にどんな強みがあれば彼女とそんなに近くなれるのか、彼女がいつも知りたがっていたことを、カールは知っていた。答えは簡単だ。それは同情と感情移入の違いだ。

 カールがこのような状況で癒しの手を差しのべたのは人生で一度きりというわけではなかった。彼は他人を助けられることに喜びを感じていたが、それ以上に、相手の立場に立ち、相手の役割を演じることに正しさを感じていた。

いままでずっと彼には、思いやりが彼の性格の基本的な部分だと考える理由があった。彼はその理由に価値を見出していたし、 感情移入的でなければ彼は無価値な人間だと感じていた。しかしいまや彼は、いままで出会ったことのないものにぶつかり、それが彼のふだんの直観をすべて、無意味で無価値なものにした。

だれかがレネーの誕生日に、おまえはあと二か月でこんな風に感じることになるぞ、と彼に言ったとしても、そんな考えは一笑に付していただろう。たしかに、こういうことは何年かかければ起こりえたし、カールは、それが起こる時間というものを知っていた。だが二か月で?

六年間の結婚生活ののち、彼女への愛を失った。そう考えてカールは自分が嫌になった。だが事実、彼女は変わってしまい、いまや彼女を理解しておらず、彼女のために感じる方法も知らなかった。レネーの知的、感情的な生活は切っても切れず、そのため後者まで彼の手の届かないところにいってしまった。

彼の赦しの反射反応が割り込み、どんな危機があっても支援的でいろなどと人に求めることはできない、と説得した。もし、ある男の妻が突然心の病を患ったなら、彼が彼女と別れるのは罪だが、それは許される罪だ。別れずにいることは、だれもが耐えられるようなものではない、異なった種類の関わり合いを受け入れるということだ。カールはそのような状況の人たちを決して非難しなかった。だが、つねに暗黙の疑問があった:自分ならどうする?そして彼の答えはいつもこうだった。別れない。

偽善者。

最悪のことだが、彼はそこにいたことがある。彼は自分の苦痛に取り込まれ、まわりの人の忍耐力を試したが、そのあいだずっと、だれかが彼を手当した。彼がレネーと離れるのは避けられないとしても、それは彼が許せる罪ではないだろう。

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 アルバート・アインシュタインは言ったことがある。「数学の命題が現実のものを説明するのなら、それらは確実ではない。それらが確実であれば、現実のものをなにも説明しない」

9a=9b

カールがキッチンで夕食向けのサヤエンドウのすじをとっていると、レネーが入ってきた。「ちょっとお話いいかしら?」

「もちろん」彼らはテーブルについた。彼女はわざとらしく窓の外を見た:深刻な話を始めるときの彼女のくせだ。

彼は、彼女が言おうとしていることが急に怖くなった。二か月たち、彼女が完全に回復するまでは、離れるつもりだと彼女に言うつもりはなかった。まだ早すぎる。

「それが自明だったことはないとわかってるけど…」

やめてくれ。彼は祈った。それを言わないでくれ。後生だ。

「…だけどあたしはあなたが一緒にいてくれたことに本当に感謝しているの」

彼女のことばはすべてが痛いほどで、カールは目をつむったが、ありがたいことにレネーはまだ窓の外を見ていた。これは本当に、本当に難しいことになりそうだった。

彼女はまだ話していた。「あたしの頭の中で起きていること…」彼女は一息おいた。「それはあたしが考えたことのあるどんなものにも似てなかった。もしこれが普通のうつ病だったら、あなたも理解できたと思うし、ふたりでなんとかやれたでしょうね」

カールはうなずいた。

「でも、起きたのは、まるであたしが、神は存在しえないことを証明した神学者になったようなことだった。それを恐れるだけでなく、確かにそれを知っている。バカげてるかしら?」

「いや」

「その感覚はとてもあなたに運べないわ。それはあたしが深く、絶対的に信じたものよ。でもそれは真実じゃなくて、しかもあたしがそれを証明してしまったのよ」

彼は口を開き、ぼくもきみが意味していることを正確に知っている、ぼくもきみとまったく同じことを感じた、と言おうとした。だが言うのをやめてしまった:なぜなら、これはふたりを結びつけるのではなく、引き裂く感情移入であり、彼はそのことを彼女に言えなかったからだ。