「マダムとミスター」は遠藤淑子の連作短編だが、注意深く読めば、主人公グレースは破綻した性格の持ち主だと気づく。もっと注意深く読めば、彼女が幸せになる要因はなく、このまま破滅するだろうということに気づく。自分のキャラをなぶるのが好きな作家がある程度いるが、この作者もそうだったようだ。しかしキャラを悲惨な境遇に置く話はあっても、人間的な成長をさせない話なんて聞いたことがない。鬼畜オブ鬼畜だ。
解説するときりがないので読んでよく覚えている人向けに書く。
そのトリックはこう。特別編「ニューイヤー」から。
あの時というのは、寄宿制の女子校にいたグレースが肝炎で入院した母親を見舞って7年ぶりに会った時。あまり話もなく、バスを気にして帰ろうとするグレースに母親は何か言いたそうに手を伸ばしたが、グレースは入学直前のつまらないケンカを思い出してしまい、彼女を傷つけるつもりで帰ってしまった。それからしばらくして母親が亡くなり、学費が払えなくなったグレースは女子校を退学した。
「ニューイヤーパーティに出るなら着てほしい」という、形見になったドレスが届いたことで、グレースは母親の手を取らなかったことを今になり激しく後悔している。読者は後悔を見せる彼女に同情し感情移入する。
さて、常識的な人間であればこの場面のお祈りは「他人を許せるような大人にしてくれ」だろう。人を許す事が難しいことも、しかしそうしなければならないこともみんな痛感しているし、まんがもそのように誘導している。でもグレースは違う。
高校生のグレースの後悔の場面は、1ページ目の幼いグレースの再演になっている。すなわちグレースのお祈りは「自分は他人を許すことはむずかしくてできないが、他人を傷つけて後悔しなくてすむように、みんなが自分を愛するようにしてくれ」だ。
女子校生のグレースは自分を傷つけた(と思い込んでいる)母親を自分の意志で傷つけた。11歳の彼女は「自分を傷つけたんだから相手を傷つけても当然」と考えていたが、母親にひどい事を言ったことは認識している。しかしグレースは抑えがきかず、またひどい事をしてしまった。ちなみに、母親が傷ついたのは「才能がない」と言われたからではない。後で書く。
まんがは常識的な考えに誘導的だが、一言もそうだとはいっていない。これは文芸的な罠だ。
グレースは母親に一度も手紙を出さなかったし、「どうせ母は家にいないから」といって一度も帰省しなかった。病院でも話題を切り出すことはなかった。彼女は自分の母親には興味がなく、母親が亡くなった時も感情を見せなかった。
グレースの精神的な成長は7年前で止まっており、抑えがきかないのも子供のままだ。「ニューイヤー」以外の話ではグレースが傷つけられることはないので、「他人を許せない」ことを確認することはできないが、改めてエピソードを見ると彼女はたしかに子供っぽく落ち着きがない。
作者は「コメディだからドタバタは当然」という読者の先入観を逆手に取っているが、シリアスにとらえると、グレースはこの時点でもかなり問題をかかえているといわざるをえない。
トリックはほかにもある。グレースの退寮の日、親友のフレディとの会話。
グレースの親友フレディが心配しているのは「ハウスミストレスが紹介してくれた仕事先でグレースはうまくやっていけるだろうか」だが、グレースの心配事は「一人で楽しくすごせるだろうか」だった。この「楽しくすごす」はほかにも出てくる。
グレースが寂しさを感じるのは楽しくすごせる友だちが帰省した時(だけ)のようだ。彼女は帰っても楽しくないから帰省はしない。
ジュディスはグレースが退学した翌年の年賀状をくれた三人のうちの一人で、あとはフレディと、仲が悪いと思っていたアン・コールリッジ。グレースが一度も帰省したことがないことに気がついていたのはジュディスだけで、フレディは気づいていなかった。グレースが辞めなくていいように署名を集めると言ってくれた残りの友だちは年賀状をくれなかった。グレースの女子校生活は楽しかったかもしれないが、あまり友情は育めなかったようだ。
フレディに「どこまでもいやな女っ!」と言われていた優等生アン・コールリッジは、嫌われていたのか皆にフルネームで呼ばれており、グレースの馬鹿さわぎには加わらない。トトカルチョをチクったことは明らかにされているが、胸像の手紙は「グレースとフレディの二人が書いた」というチクりで、もしアンが見ていたのならその場でやめさせたはずだ。
泣いているのはジュディスで、胸像の手紙をチクったのはグレースが退寮するときに「お別れなんていやよ グレース」と言っている子。グレースを嫌っているのではなく、彼女がふざけすぎたので本当に良心がとがめたんでしょう。
彼女は定期テストであっさりグレースに首席を奪われ、しかも今まで手加減されていたと知って、グレースの考える「アンの自分の価値」は完全否定だ。アンがグレースと仲良くなる理由はなにもないが、品行方正は伊達ではなく、グレースに年賀状を出している。馬鹿さわぎでないところにこそ友情が生まれるとでもいいたげだ。
それにひきかえ「それにアンは首席になる事こそ自分の価値だと思ってるようだから」と、さらっとひどいことを言うグレースの自尊心は極端に低く、一般的な「自分の価値」というものを理解していない。やはり入学前の母親とのケンカのまま心が止まってしまっている。
ほめておいてなんだが、アンの階級意識には鼻がつく。
エレン・バリーはとても立派な母親だが、照れ隠しで実につまらないことを言う。ストーリーがグレース視点で語られるため、読者の抱く印象は偏向している。何から何までが罠。
やっかい払い先に年額数百万のセントメアリーはありえない。女子校時代のグレースも母親が送ってくる学費を「かなり無理してたようだから」といいつつ当たり前のように受け取っていた。彼女はどうやらお金の値打ちを理解していなかった。エレンがグレースに経済的な苦しみを味わわせない努力をしていたと思われるが、セントメアリーの寮生活では金銭感覚は発達させにくいだろうし、それが退学していきなり経済的に困窮するのだから相当キツかったはずだ。金にがめつい性格もこのへんに一端があるのだろう。
エレンは娘を名門私立にやって得意の絶頂の笑顔だが、照れ隠しなのか本当につまらないことを言う。 グレースは「あんたの居場所はないかもね」を聞いて、立ち聞きした「やっかい払い」を思い出し、エレンを否定し傷つけるため、子供とは思えない罵倒をする。頭のいい子供は怖い。
エレンはグレースに、もうすでにたくさん働いているし、苦労もしていると反論しているだけ。「あんたさえいなけりゃ わたしはもっと 幸せになってたわよ!!」も経済的に楽だったというだけのことだが、「やっかい払い」を立ち聞きしていたグレースは、自分はいらない子だと思い込んだ。めんどくさい親子だ。
労働者階級の人間が公立校に行くと大学に進むのは難しいので、エレンは頭のいいわが子を大学に入れたかったようだ。そのためだけならセントメアリーでなくてもいいが、娘にはできるだけのことをしてやりたかった模様。ニューイヤーディナーパーティはお見合い的なところもあるらしいので、階級的な成り上がりをたくらんでいたのかもしれない。
気の早い親がドレス選びを始める時期だから、エレンも入院直前に買ってあり、グレースに手を伸ばしたのもその話をするためだっただろう。グレースの服装からするとエレンが入院したのは初秋、亡くなったのは初冬で二、三か月ほどの開きがある。彼女はすぐに退院するつもりでおり(グレースの学費の心配はしていないようなので)、何にせよ最期のことばのつもりではなかった。
エレンは自分がつまらないことを言ったせいだが、実に報われない。親子で暮らしていた時はとくに飲んでるわけではなく、グレースをセントメアリーにやってから飲み始めたようだ。娘がいなくなって寂しいからだろう。彼女の学費のため仕事に力を入れれば恋人を作る暇もないから、エレンはひとりぼっちだったはず。その間、グレースは馬鹿さわぎをしていて寂しくなかった。手紙も書かない帰省もしないグレースがエレンを死なせたようなものだ。
まとめると、グレースの性格はこんなところになる。
- 非常に子供っぽく、抑えもきかない
- 寂しいのが嫌いだが、その反対は馬鹿さわぎ
- 極端に自尊心が低い
ジョンストン邸に来るまでに仕事を何度もクビになっているのにまるで反省していないことから、グレースは前向きでタフなのではなく無責任なのだとわかる。ジョンストン邸に来てすぐにモップを振り回して皿を割ったりと、やはり子供っぽい。
グレース本人は一生懸命のつもりだが、なお悪い。こんなものは前向きともタフともいわない。
ジョンストン家の主人となったグレースが騒動を起こすのは、もちろん寂しくならないため。下に引用したが、「親の愛情の変わらない愛情を確かめたくていたずらするっていう」と彼女自身が言う通りだ。
これだけ見ると最低な性格だが、彼女の自尊心の低さがすべての原因のメンヘルだとわかる。自尊心が低いのは、母親に愛されなかったから。そう思い込んでいるだけだが。
グレースの美点は思いやりがあって他人のために体を張ることができるところだが、火の中に落ちた燭台を拾ったり、ナイフをつかんだり、ジムおじさんの件など、自分を大事にしないところが目立つ。
グレースはアスペルガー障害だと考えるとすべてがしっくりくる。頭いいし。
キツい物言いではおさまらない、相手を傷つけるのが目的の、冷静で的確な攻撃
何年もまったく冷めない怒りと、基本的にやさしいグレースに似合わぬ異様な冷たさ
こちらも性格に似合わぬ、合理的だが冷たいところ。他にもいろいろあるから、たぶん間違いはないだろう。
連載の後のほうではひそめたが、当初グレースはホレっぽかった。
グレースにとってホレっぽいとは「次から次へと男ができて そのたび騙されたり捨てられたり」という認識だった。エレンの姿はグレースの視点でしかないが、仕事をつぎつぎにクビになり、ホームレス経験もあるホレっぽいグレースも、ジョンストン邸にくるまではこんな感じだったはずで、「グレて ヤク中とか売春しなかった自分をほめてあげたい」というのは、その一歩手前で踏みとどまったということ。ジョンストン氏の意向とはいえ、ピーターもよくこんな女を採用したものだ。
ピーターが言うには、グレースがはケンカ慣れしているらしい。
セントメアリー時代は当然(暴力的な)ケンカなどしなかっただろうから、退学してからケンカ馴れしたはずだ。ケンカに馴れるまでは理不尽なこともそのまま受け入れざるをえない。馴れが早そうなことだけが唯一の救い?だが、それでも女の子がケンカで男に勝てるわけがなく(そういうセリフもある)、ナメられなくなったという程度で、解決の手段としては使えない。また、グレースは野宿の経験が豊富らしいが、彼女は旅行をするわけではなく、ホームレスのことだろう。いずれにしろ、こういった暴力的で悲惨な環境にいきなり放り込まれたグレースの境遇は、護られていたせ女子校時代とは正反対のものであり、セントメアリーはここでもエレンの愛を象徴しているといえる。
他のエピソードでは、2巻の催眠術のエピソードから。
グレースは退行催眠で8歳になった。8歳のグレースはさびしくて、誰にも好かれないと言っていた。「グレース あの…」というセリフは、「ニューイヤー」を連想させるが、「また罠にかけますよ」という意味かもしれない。
ピーターはこんなことを言っているが、使用人は屋敷でのグレースしか知らず、ジョンストン氏が死んだ時も彼女は金目当てを公言していた。なんにせよ、まるで成長しない彼女が「勝ち取った結果」は、たんに結婚して屋敷にいること以外にはない。セリフはウソはつかない。
メイドの(大人の)グレースへの感情がわかるセリフはここしかないが、ずいぶん雇い主を馬鹿にした発言だ。メイドの「グレースが好き」はしょせん、セントメアリーの馬鹿さわぎ友だち以下の、珍獣に向けるものでしかない。メイドたちは魅力的な人物に見えるし、グレースにも嫉妬しないが、それは階級的な成り上がりには興味がないからだろう。誰もかれもが成り上がりたいわけではない。
退行催眠で8歳になったグレースに対しては心配しているが、こちらは「小さな子供がかわいそう」なだけ。
おまけ:「大好きだよ」を眠りを解くキーワードにしたロマンチックな催眠療法士。
「ニューイヤー」のラスト、年越しパーティの場面では、ピーターは酔っぱらったコック長に絡まれていて、グレースとメイドたちはとても仲が良さそうだが、彼女には成り上がりとはいえ雇い主・上流階級の自覚が全くない。グレースの庶民的なところはたしかに魅力的だが、彼女の今後の人間関係には大きな不安がある。
ピーターはマザコンのヤクザで、使用人という立場からも、グレースを母親と同一視する心情的にも、彼女の親代わりになってしつけることはできない。
ピーターはグレースに甘い。レディとしてのふるまいを身に着けさせる必要があるのだが……
はっきりと書いてはいないが、いとこのベンジャミンの話と最終話をあわせると、彼のいう不幸は母親が去っていったことのようだ。自分が弱いから母親が去っていったと彼は考えていて、(たぶん初恋の)ビアトリスまで彼を置いて行くのを前にくじけそうになっている。大人のピーターは今度はグレースに母親を投影している。彼の味方は「自分の前から去っていかない人」のことだから、そのためにはグレースを子供のままにしておき、依存させるのが一番都合がいい。彼女はピーターの愛に飢えているから、お互いに親がわりに依存してある程度までは安定はするだろう。
グレースに友だちはいないし、メイドには珍獣扱い。階級意識的にも新しい友人はできそうになく、ピーターとはお互いに依存する。グレースに精神的な成長の機会はなく、一見幸せな子供のまま破滅していくだろう。彼女が「かわいくていい子」という歳ではなくなったとき、大人としての振舞いを要求されたとき、コメディは成立しなくなるはずだ。
以上、グレースの性格が破綻しているという直接的な描写は一切なく、彼女の未来についてもほのめかしでしかないが、読者がいくら都合よく曲解したところでこれだけ一貫することはありえない。やはり「マダムとミスター」は鬼畜まんがだと言わざるをえない。
と思ったが
Merry Christmasをていねいに言うと
I wish your merry Christmas
なので、ハッピーエンドだと言わざるを得ない。この記事で書いたようなことを「とにかく」の一語で片づけています。